『公園へ行かないか? 火曜日に』柴崎友香

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

 はじめて降りた駅の中華料理屋でかかっているテレビ番組を途中から見始めて、ドラマなのかそれ以外の何かなのか、しばらく経ってもよくわからないときがあります。『公園へ行かないか? 火曜日に』を読んでいたときも、読み終わったいまも、これが小説なのか、エセーなのか、それ以外の何かなのか、よくわからず、ずっと考え続けています。

 私は一体何を読んでいるのか。それを問うこと自体が本書の核にあるのだと思います。

 本書は、世界各国から作家や詩人たちがアメリカのアイオワ大学に集まって十週間過ごす、IWP(インターナショナル・ライティング・プログラム)に参加した作家の「トモカ」が、不得手な英語を使い、街を歩き、考えた軌跡です。

 トモカは、33か国、37人の中でも、「どうやら自分だけが極端に英語の出来が悪い」らしく、見たもの、聞いたもの、自分のいる場所をiPhoneで検索しています。知識として知ることのできる情報と、体験する現実とのギャップ。知っていると思い込んでいるイメージの「アメリカ」と、目の前にある「アメリカ」の違い。全員がアメリカの外側から招かれた作家だからこそ、コミュニケーションの形もほとんど全員が不自由さのある英語で話さざるを得ず、トモカと作家との間の「わからないこと」の輪郭がはっきりと浮かびあがってきます。

 世界の中にある複数の言語の中から、なぜ自分はいまの言語を選んで言葉をつむぐのか?

 香港の作家ヴァージニアは、アメリカ人からも「すごくきれいなクイーンズ・イングリッシュだ」といわれるほど、正確に英語を使いこなしているのに、英語で作品を書いていません。香港で使われている広東語ではなく、英語で書けば読者の数も増えるし、読んでもらえる機会そのものも増えるのに、なぜ英語で書かないのか?

 トモカの質問に対して、「英語はわたしにとってエモーショナルな言語じゃないから」と即答します。今後も英語で書くつもりはないと。では、トモカにとって、エモーショナルな言語とは何なのか? 自分が書きたいと思う言葉とは?

「日本語が話せない毎日の中で、自分が話したいと思うのは、話したいと体の奥から湧き出てくるのも、いつも、大阪の言葉だった。日が経つにつれ、共通語は、どんどん思い浮かばなくなっていった。」

 トモカにとって、「エモーショナルな言語」は、「日本語」というよりも「大阪弁」だと気づかされます。

 しかし、トモカの両親は、二人とも西日本出身で、大阪に長く暮し、大阪弁に近い言葉を話すものの、「大阪弁」ではありません。自分にとってのエモーショナルな言語のルーツが、両親ではないのならば、「では、わたしの「母語」は、誰からきたのだろう。誰から受け継いだ言葉で、わたしは話したい、書きたいと、こんなに強く思うのだろう」という根源的な問いが開かれていきます。

「わたしと誰かの、そのあいだにある言葉とはなんなのだろうか」。この問いに答えはないのかもしれませんが、伝えられないけれど、伝えたいものは、私にもあります。そして、「人の気持ちがわかることは、誰かと同じになることは絶対に、絶望的に絶対にないのだから、できることはただ共感することだけだ(中略)わからないから、そこに共感があるのだと」。この言葉と物語に強く共振しました。

 私は一体何を読んでいるのか。
 これが小説なのだとしたら、間違いなく言えるのは、私にとってはじめて読む「小説」でした。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki