『ストリートの精霊たち』川瀬慈

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

 本書の主な舞台はアフリカのエチオピア北部の都市、ゴンダール。日本から一万キロ以上飛行機で飛び、エチオピアの首都アジスアベバから青ナイルの源のタナ湖を越えて、雄大な高原を見下ろし、さらに730キロ北上したところにある、かつての王都。その都市を貫くストリートには、物乞い、ごろつき、流しの芸能者、かけだしの聖職者、ストリートガイド、物売り、靴磨きなどが雑多にあふれていて、日々を生き抜くためのむき出しのエネルギーがぶつかりあっています。

 フィールドワークにやってきた文化人類学者の川瀬慈氏は、当初、街のノイズや、毒々しさ、どぎつさにあてられ、「私は耳をふさぎ、すべての音を遮断し、心を固く閉ざし、ゴンダールのストリートを足早にかけぬけようと」さえしますが、20年近く日本から通い続け、自らを「ゴンダール人」と呼ぶまでに魅了されます。はたしてゴンダールのストリートの魅力とは一体何なのでしょうか。

 川瀬氏は、「ゴンダールのストリートは働く子どもであふれている。ストリートは子どもたちにとって経済活動の母胎であると同時に、生き抜くために、したたかに自己を表現する劇場でもある。」と述べています。自らをゴンダール人と呼ぶ川瀬氏もまんまとだまされて激しく怒りますが、ストリートの輩に、「人との出会いは、喜びと同時に苦しみをもたらすものなのだ」と諭されます。

 難解な歌詞の中に隠された意味を込める音楽師アズマリ、早朝に家の軒先で歌い金品をもらう吟遊詩人ラリベロッチ、邪視をもつ集団と呼ばれてきたエチオピアのユダヤ教徒、トランプの「ジョーカー」にたとえられる病に倒れていく娼婦たち、道行く人の腕を強引につかみ垂れ下がった乳房を片方だけあらわにして、自分には養うべき赤ん坊がいることを訴え、物乞いをするピアッサの精霊。極彩色にあふれた人間たちとの濃密な交流を通じて描き出されるストリートのドラマには、引き込まれずにはいられません。

 本書を読んでいて深く考えさせられたのは、生きるためにだますことは「悪」なのか、ということです。ストリートの劇場で、日々生きるために狡知を発明するゴンダールの精霊たちの悪びれない姿を読んでいると、良い/悪い、という単純な対立ではなく、狡知の多層性を考えずにはいられません。

 遠く離れた日本からギターを背負ってアフリカにやってきた川瀬慈氏は、昔ながらの日本的な共同体から逃れたかったといいます。地球の反対までやってきて、丹念なフィールドワークを通じて著者が見つけたのは、日本と同じように、「人とのつながりを大切にし、他者に対してすぐに感情移入したり、近所づきあいにおいては互いに過干渉気味のゴンダール人」でした。

 どぎつく、生々しいストリートのむき出しの現実が、一篇の詩を読むように美しいのは、人種を越えて、言語を越えて、人間の本質を発見した著者の温かい視線が全編に沁み渡っているからです。未知の世界を広げてくれる本に出会った時の興奮は何事にもかえがたく、読書の喜びの源泉はまさしくこの体験の中にあるのではないかと改めて気づかされました。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki