『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』ジョン・ル・カレ

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

  • 地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録 (ハヤカワ文庫NV)
  • 『地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録 (ハヤカワ文庫NV)』
    ジョン ル・カレ
    早川書房
    1,274円(税込)
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 元スパイが自伝を書くのは、外部の人間が思うほど容易い業ではない、と本書の解説を書いた作家・外交ジャーナリストの手嶋龍一はいいます。

「ひとたび情報の世界に身を置いた者には厳しい守秘義務が課されているからだ。イギリスでは公職を離れても生涯を通じて機密を守り抜くことが求められる。この掟を破った者には鉄槌が下される。」

 実際、ジョン・ル・カレは、イギリスの諜報員だったサマセット・モームは『アシェンデン』が公職守秘法に違反しているとウィンストン・チャーチルに難じられると14作の未発表原稿を焼却し、残りの作品も出版を1928年まで延期したと書いています。またイギリスの秘密情報部MI6で防諜活動の責任者だった作家、コンプトン・マッケンジーは、1932年に『ギリシャの思い出』を書いて公職守秘法違反で訴追され、百ポンドの罰金を科されました。ノヴェルとエンターテイメントを描き分けたノーベル文学賞作家グレアム・グリーンもMI6出身で、『ハバナの男』で、危うく中央刑事裁判所に出頭する寸前だったといいます。

 元スパイが小説を書くだけで既に訴追のリスクを背負っているのに、自伝ともなるとその危険度は否が応にでも増さざるを得ません。なぜなら、読者が知りたがるのは、元スパイの日常茶飯事ではなく、元スパイの金庫に隠してある秘密だからです。

「生来嘘つきで、嘘をつくようにしつけられ、嘘で生計を立てる業界で訓練され、小説家として嘘のなかで生きている。フィクション作家になって何種類もの自己を作り出した。それらは実在するとしても、決して本物ではない。」と語るジョン・ル・カレが、「必要に迫られて実名を隠すことはあっても、断じて偽りはない」と断言する超絶技巧の回想録。守秘義務違反を犯すことなく、読者の期待に応えることはほとんど不可能のようですが、その類まれなミッションに成功したのが本書です。

 作家ジョン・ル・カレの代表作は、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』か、『寒い国から帰ってきたスパイ』です。特に『寒い国から帰ってきたスパイ』は、ミステリ評論家・瀬戸川猛資の名著『夜明けの睡魔』で、「この小説がハヤカワ・ノヴェルズの最初の一冊として翻訳刊行された時の騒然とした雰囲気は、よく覚えている」と渋谷の大盛堂書店でドーンと積み上げられていた当時を回想しながら、「スパイ小説史上もっとも注目すべき作品のひとつであり、同時に一九六〇年代に書かれた最良のミステリのひとつである」と言い切っています。半世紀以上も前に書かれたエンターテイメントが果たして今でも面白いのか、と問われれば、これが不思議なことに面白く、読みはじめたら頁を手繰る手が止まりません。

 ル・カレが創造したスパイ小説の主人公、ジョージ・スマイリーは、イアン・フレミングが産み出したジェームズ・ボンドとは違って、処女作『死者にかかってきた電話』ではじめて登場したときには、すでに50代後半。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で秘密諜報部に呼び戻されたときは、すでに70歳。スマイリー三部作の完結編『スマイリーと仲間たち』では70代の半ばを過ぎたほとんど高齢者です。ど派手なアクションはなく、美女の誘惑も期待できないスパイ小説がなぜこんなに面白いのか。舗道をあるくときにひとりごとをつぶやき、時代遅れかもしれないが長年の習慣を守る老スパイ。この一群の物語がたまらなく魅力的なのは、圧倒的なディテールと、どれだけ困難なミッションを課されても決してあきらめず、執拗にくいさがって、巧妙な結び目を一つ、また一つと解きほぐしていくスマイリーの背中です。

 濃密極まりない物語のらせんに一度まきとられると、日常生活に復帰するのがしばしば困難になりますが、この稀代のストーリーテラーにも書けなかった物語があります。それが自身の青春時代、すなわち回想録です。守秘義務違反を回避するために、一度迂回してアダム・シズマンに『ジョン・ル・カレ伝』という伝記を書かせる入念さにも驚かされますが、予備知識がなくとも楽しめるように回想録を書く作家のサービス精神にもめまいがします。なかでも、通常編年体で描かれることの多い回想録の手順を覆し、あえて後半に隠した「著者の父の息子」は本書の白眉です。

「グレアム。グリーン曰く、子供時代は作家にとっての預金残高である。その伝でいけば、少なくとも私は億万長者の家に生まれた。」

 何度も書こうとして書けなかった「五つ星の詐欺師」の父親の驚愕の生涯に、是非打ちのめされてください。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki