第3回 見えない手

 詩集は売れなくなった。とある古本屋の店主は言っていた。「詩はなぁ、昔に比べればなぁ...」と。そんな売れなくなった詩集を僕の店ではそれなりに棚を占めて並べている。それは自分自身が詩を愛してしまっているからだし、もっとも本の姿が似合うのは詩集だと思っているからか。詩は情報ではない。データではない。今すぐ役に立つ便利なものではない。例えると、それは「見えない手」なのだと。私の感情を握り、引っ張り、時には引っ叩く、手。詩人たちの手は本の形をして、私たちの前に表れている。

 こんな夜があった。女子学生の二人組が来店し早々に「何か詩集はありませんか?」と聞いてきた。初めての来店でもあったので、急に聞かれて少し戸惑う。どんな詩が好きですかと聞くと、普段読まないけれど詩集を読んでみたいとのこと。このような場合のお勧めはなかなかに難しい。ではと鮎川信夫や田村隆一はやや渋すぎる気もするし、谷川俊太郎を勧めるのも何か逃げたような気持ちになる。僕の好きな中原中也はちょっと二人の今日の雰囲気には合わないかもしれない。現代詩人の詩集なんぞはとも思ったが、在庫が無かった。それでもあれこれと会話しつつ、二人は「尾形亀之助詩集 美しい街」(夏葉社)と「中澤系歌集 uta0001.txt」(皓星社)を選んだ。個人的に嬉しいチョイス。僕のおすすめしていた本じゃなかったけれど・・・。

 会計も終わり店を帰ろうとした時、二人は帳場近くに積みあげていた本の山から、とある一冊を抜きだした。尾道生れの妙見幸子さんという方が書いた詩集「雪の花びら――電動タイプでうたう」(東方出版)。常連のおじいさんが持ってきたもので、同タイトルのものが五冊ほどあった。おそらく知人などに配られていたのかもしれない。妙見さんは仮死状態で生まれ、脳性マヒの障害を抱えていた方だったそうだ。四肢が不自由な彼女に福山若草園の先生が電動タイプを紹介し、一四歳の少女の詩作が始まる。彼女がはじめて書いた「小さな想い出」は、後にフォーク調の音楽もつけられ、四年後の奈良でひらかれた「わたぼうし音楽祭」で入賞作に選ばれる。白く静かな装丁の詩集を開くと、なんとも可愛らしい恋の詩など多数あり、こそばゆくなるのだが、次のような詩があると頁をめくる手がふと止まる。

 

  みそ汁一杯も作れない
  たった一杯のお茶さえ沸かせない
  あなたはほんとうにやさしいひとだから
  やるせなくて くやしくて
  誰がこの手を この足を 見かけ倒しにしたのですか

                                 ――「車の中で」

 詩集には「手」にまつわる詩がいくつか収められている。同じ施設に過ごした方に向けられたであろう「筋ジストロフィのあなたへ」では

 

  もう これだけしか 力 無いの と さみしく笑うあなたに

  私のほうが 悲しくなって
  もう一度思いっきり手を握って― と言い 手を出した
  すると あなたは
  歯をくいしばり あらん限りの力をふりしぼり
  私の手を握ったけれど
  痛くはなかった
  それで私は なおいっそう悲しくなった

                          ――「筋ジストロフィのあなたへ」

 ゆっくりと読みあっていた二人は、それぞれ一冊ずつ買い足して夜の店をあとにした。そうかこんな買い方もあるのかと、僕は気づかされた。

 いい詩とは何かという話をお客さんと時々する。そのたびに僕は悩みながらこう答える。それは「切実さと誠実さ」なのではないかと。それを語らざるを得なかった詩人の切実さと、言葉に対する、あるいはその詩を手にする人びとへの誠実さ。妙見さんの詩は、詩的表現としては素朴なものかもしれない。けれど多弁で巧みな詩よりも切実で誠実ではないかと思う。彼女の手はたしかに読んだ僕の手を握る。
 詩集は売れなくなったと言っていた。新刊書店では平積みされた本が煌びやかだ。売れるとは何かと古本屋の僕はふと立ち止まりたくなる。その本たちは僕の手を握ってくれるのだろうか。引っ叩くというのか。そもそも手がない本もあるのかもしれないと、僕はまた売れない詩集をいそいそと仕入れる。

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