はじめに

「小説」という概念が登場してこのかた、実にさまざまなジャンルが誕生した。
「冒険小説」「探偵小説」「ミステリー小説」など形式の分類もあれば、日本では「観念小説」「深刻(悲惨)小説」「中間小説」など概念やポジショニングを表すものもあり、それはそれは把握しきれないほど多岐にわたるが、そんな小説分類法に今日さらなるジャンル「夫人小説」を加えようという不心得者が現れた。筆者である。

 発想の発端は、『○○夫人』と名のつく小説って世の中にどれくらいあるのだろうという素朴な疑問から。既に読んだ作品を思い出してみても、チャタレイ夫人(『チャタレイ夫人の恋人』)、エマニュエル夫人、ボヴァリー夫人、ダロウェイ夫人、ウィンダミア卿夫人(『サロン・ウィンダミア卿夫人の扇』)、真珠夫人、武蔵野夫人......といくつでも挙げられる。これはもしや宝の山では! と思い、他にもないかと調べたら軽く2~300作品は見つかった。絶版本や雑誌発表のみの作品を含めるともしかしたら倍くらいにはなるかもしれない。最近あまり聞かなくなった「夫人」タイトルだが、一昔前が真空パックされたような懐かしい良さもある。これらを「夫人小説」と称して分類することで何かが見えてくるかもしれないと考えたのだ。

 ここであらためて「夫人」についてもさらっておこう。
「夫人」は夫の人と書き、既婚女性の呼称である。語源には諸説あるが、現在のような使われ方は外交の場に夫婦ペアで登場するようになった明治の欧化政策時代といわれている。つまり、初期の「夫人」は上流階級、支配階級の奥様と同義であり、女房、おかみさん、嬶(かかあ)などとは一線を画す存在だった。それが次第に誰かの奥さん程度の言葉となり、現代では「妻で母で女です」というどこかのキャッチコピーではないが一人何役もこなす女性が理想とされ、「夫人」は男性に隷属しているかのような印象を持たれてあまり使われなくなってしまった。懐かしさ、の理由はこんなところにあるのだろう。

 とはいえ、「夫人小説」には、まだまだある種のときめきがある。その正体は秘密めかした雰囲気とでもいおうか。「小説」という虚構の膜と、他人の妻というもうひとつの膜によって「夫人小説」の世界は宿命的に二重にくるまれている。そのうえ夫人が秘密を持っていれば膜は三重にも四重にも厚くなる。隠されれば見たくなるのが人の性、タイトル『○○夫人』の持つあざとさが21世紀の今でも通用する所以だろう。

 エポックメイキングな作品が多いのも「夫人小説」の特徴だ。
 国木田独歩『鎌倉夫人』はモデル問題で物議を醸したし、菊池寛『真珠夫人』はその後のいわゆる「通俗小説」の方向性を大きく示した。織田作之助『土曜夫人』は作者死亡で未完ながら映画化され流行語になり(この展開は他の「夫人小説」にも散見される)、大岡昇平『武蔵野夫人』はレイモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(この小説はドルジェル伯夫人が主人公にも関わらずタイトルに「夫人」がないのがいかにも惜しい)にオマージュを捧げている。

 ちなみに、「夫人小説」は著名な作家も密かに(?)手を染めている。
 坪内逍遥、森鴎外、泉鏡花、太宰治、萩原朔太郎、島崎藤村、夢野久作、岡本かの子、神近市子、野上弥生子、宇野千代、横溝正史、平林たい子、源氏鶏太、塩田丸男、佐藤愛子、変わり種ではC・W・ニコルなんて人も。
 また、エロとの親和性が高いためか発禁本も多い。有名どころの『ボヴァリー夫人』『チャタレイ夫人の恋人』は本国だけでなく邦訳本も発禁。国内作品では、戦前に生田葵山『富美子夫人』の前編にあたる『富美子姫』が風紀紊乱のかどで発禁となり、戦後にはカストリ雑誌に連載されていた北川千代三『H大佐夫人』が戦後第一号の発禁本になった(エロといえば官能小説界の「夫人」人気は不動で、一人で23作品をものした作家もいるほど)。

 そんな、何かと世間を騒がせてきた「夫人小説」の高いポテンシャルを確かめるべく、できるだけ集めて読んで代表的な作品を時代順に並べてみようというのが「夫人小説大全」のテーマである。「夫人小説」に現れた夫人(女性)、世相、風俗描写を通して読者に求められ、受け入れられてきた近現代日本の夫人像の変遷が見えてきたらしめたもの。何が出るかは筆者にもまだわからない。みなさんと一緒に楽しんでいければと思っている。