6月29日(水) この文庫解説がすごい②

  • ブラックライダー(上) (新潮文庫)
  • 『ブラックライダー(上) (新潮文庫)』
    東山 彰良
    新潮社
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  • ブラックライダー(下) (新潮文庫)
  • 『ブラックライダー(下) (新潮文庫)』
    東山 彰良
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 東山彰良『ブラックライダー』の新潮文庫(平成二十七年十一月刊)の解説が素晴らしい。以下、その理由を書く。まず、この文庫解説は次の一文から始まる。

 いまあなたが手にしている『ブラックライダー』は、日本文学の、いや、世界文学の歴史に残る、超弩級の大傑作である。

 こう書いてから例に出す作品名がすごい。

・ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の神話性
・マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』の歴史性
・『北斗の拳』+〔マッド・マックス〕シリーズのバイオレンスとアクション
・ジョン・ウェイン主演の映画『大列車強盗』(一九七三年)の痛快さ
・コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』の詩情
・クェンティン・タランティーノ『レザボア・ドックス』のセンス
・『水滸伝』+『指輪物語』(あるいは『ロード・オブ・リングス』)の興奮

 これらすべてを足したような小説だというのだ。すごい賛辞である。しかも、東山彰良はこの長編のあとに書いた『流』で直木賞を受賞するのだが、その『流』が選考委員の北方謙三から「二〇年に一度の大傑作」と激賞されたことを紹介したあとで、本書『ブラックライダー』はそんなものではなく、五〇年に一度の大傑作だと断言するのだ。

 それからゆっくりとこの長編の内容紹介に移っていくのだが、真にすごいのはその先である。少し長くなるが、そのくだりを引く。

 登場人物(しかも外国人ばかり)と場面転換がやたらと多いうえに、舞台になじみがないため、第一部で話についていけなくなる読者がけっこう多いらしい。そこで、いくら読んでもちっとも状況が頭に入らない、困った−−という人にお薦めの奥の手がある。すなわち、思い切ってページをすっ飛ばし、第二部から先に読むこと。第二部の救世主編は、時系列で言うとほぼ第一部と同じ頃にメキシコで起きている事件を描いているので、物語の順番的にはこちらを先に読んでも支障がない。一視点で語られる第二部は一直線にどんどん読み進められるので、そちらを読んでからまた第一部に戻れば、世界に慣れている分、ずっと読みやすいはず。

 実は私、この通りに読んだら、一度も挫折することなく、くいくいと読むことが出来た。第一部から順番に読んでいたら、あまりに難解で、絶対に途中で本を置いていただろう。ところが第二部から読み始め、それから第一部に戻ると、もうこの世界に慣れているので平気なのである。まるで魔法を見るかのようだ。これを「大森スペシャル」という。

 ご存じの方が多いだろうが、この『ブラックライダー』新潮文庫版の解説を書いたのは、大森望である。彼は時折、この「大森スペシャル」を繰り出す。たとえば、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』ハヤカワ文庫版の解説にはこういう箇所がある。

 冒頭でつっかえた人は、第1章、第2章はざっと眺めるだけにして、第3章からじっくり読み、だいたいの流れが呑み込めたところで(あるいは最後まで読み終えてから)最初に戻って読み直せばいい。第三部(特に第9章)のコズチ理論や標準ファイバーをめぐる議論は物理系ハードSFとしての『ディアスポラ』の根幹をなす部分だが、ここも小説全体からは独立したネタなので、だいたいの雰囲気がわかれば問題ない(僕自身、ちゃんと理解できたとはお世辞にも言えません)。こういう難読箇所は、RPGで言えば、クリア後のお楽しみの裏ダンジョンにいるべきボスキャラみたいなもの。無理に立ち止まって倒さなくても先に進めるし、それによって結末の感動が損なわれることもない。完全攻略にチャレンジしたい人は、一周めに小説を楽しんだあと、二周め三周めに、イーガンのサイトや各種参考文献を手がかりにしながら、じっくり時間をかけて難敵を倒せばいい。

 ここでも、この難解な小説を読むためには第1章、第2章を飛ばし、第3章から読めばいいと指南している。私はこの部分を読み違え、第3部(いちばん難解なところ!)から読み始め、早々に挫折した経緯がある。せっかくの「大森スペシャル」なのに、読み違えてはいけません。

 考えるまでもなく、第一部から始めて第二部に続くという構成は、その作品の根幹であり、そこには作者の意図がある。順序を変えて読め、という「大森スペシャル」はその否定にほかならない。オレの構成を無視しやがって、と怒る作者がいても不思議ではない。さらにもう一つ、おれは理解したけれど、理解できないやつらがいるなら仕方がない、奥の手を伝授しようというその「上から目線」の物言いが気になる、という読者がいるかもしれない。しかし、私はけっして大森望の人間性を賛美する者ではないが(それこそ言いたいことはたくさんある)、ここではむしろ、自分を離れて小説を語ることが出来るのは大森望の美点と解したい。どういうことか。

 小説を語るということは、結局は自分を語ることだ。「私はどう読んだか」ということが巷にはあふれている。ところが大森望は、他人はどう読むか、ということを常に考えているのだ。たとえば、『ブラックライダー』をいろいろな人に薦めたら、結果は毀誉褒貶真っ二つ。大絶賛する人がいる一方、「第一部の最後までたどりつかなかった」とか、「がんばって読んだけど読みどころがさっぱりわからない」と言う人がいたという経験譚を前記の解説で彼は書いている。問題はこの先だ。自分が大興奮し、そして同様に大絶賛する人がいたのなら、私ならそれでもう十分と思うのだが、大森望は「わからない読者」に対して、何か手だてはないかと考えるのだ。そして繰り出すのが「大森スペシャル」なのである。

 そうだ、これも書いておこう。大森望を語るのにいちばん象徴的なのは、前記『ディアスポラ』の解説で次のように書いている箇所だ。

 読み出したはいいが途方に暮れている文系読者のための『ディアスポラ』攻略法は、しごく簡単。すなわち、「わからないところはばんばん飛ばす」。これだけでOK。隅から隅まで理解しようと脳みそを絞る必要はありません。

 これは、ハードSFを文系読者が読むときだけの心得、ではない。彼と小説との距離がそこにある。わからないところは飛ばせばいい──大森望とは長い間、書評対談をしてきたが、SFがテキストになったときなどに、彼はよくそう言った。隅から隅まで理解しなければいけないのではないかと考える私は、そう言われるたびに飛ばしていいのかよ、と驚いたものだが、これこそが評論家大森望の最大の美点である、と最近では考えている。