10月15日 井上靖の競馬小説を探して

 井上靖に「騎手」という短編がある。私が持っていたのは、昭和30年刊行のちくま新書だ。講談社のロマンブックス、角川小説新書など、そのころは各社が小説新書を出していた。時代は違うが、集英社のコンパクトブックス、文藝春秋のポケット文春という小説新書もあった。まだ文庫戦争が起きる前のことである。

 古書店で、『騎手』という書名の本を見つけたので買ったものの、読まずにいたらそのうちに紛失してしまった。で、今回、改めてちくま新書版を古書店で買ってきた。もともとは、群像の昭和28年4月号に載った短編である。

 改めて購入したあとで書棚を調べたら、井上靖文庫の第21巻にこの短編が収録されていたので、ちくま新書版を買う必要はなかったことに気がついた。この井上靖文庫というのは、昭和37年ごろに新潮社から刊行された新書版の小説選集だ。堅牢な箱入りで全26巻。神保町の古書店の店頭に、揃いで4000円で出ていたのを買ってきたのはもう30年近く前のことだが、いつの間にか半分が散逸。辛うじて残ったものの中に、「騎手」をおさめた巻があった。

 馬主夫婦の競馬場における光景が描かれる短編だが、妻の多加子は、夫の清高に対して反抗の気持ちから「これだけは駄目だ」と言う馬の馬券を買うのである。『憂愁平野』における夫婦喧嘩のシーンは有名なので(つまり、本当に夫婦仲が悪いのかどうかがわからず、そのあやうい関係を絶妙に描くのが素晴らしかった)、ここもそういうことかと思っていると、どうもそういうことではない。というのは、騎手の梶に、誘いの手紙を渡すからだ。知人の別荘で逢い引きしようというのである。本当に浮気するつもりなのかどうかはわからない。しかし、不穏な空気が漂っている。その梶が落馬するのがラストで、最後の1行はこうだ。

「馬場の正反対のコーナーから救急車が走り出していた」

 切れ味鋭い短編といっていい。競馬を親しむ文士は多いけれど、井上靖と競馬の関係については聞いたことがなかったので、他にも競馬短編があるのかどうか、俄然気になってきた。

 で、ネットで調べていたら、ギャロップ前編集長の鈴木学が井上靖「碧落」について書いている文章が出てきた。この短編も競馬小説だというのである。1956年の皐月賞を9番人気で勝ったヘキラクという馬の名付け親が井上靖だったと鈴木学は書いている。日本調教馬として初めて海外の重賞を勝ったハクチカラと同期の馬である。

 馬主である知人に頼まれて命名したというのだが、調べてみたら前記の井上靖文庫の第20巻にその「碧落」が収録されていた。これは菊花賞を描いた短編である。

 雹太という男がいる。工場の経営は弟にまかせ、中山、府中、小倉と旅を続けていて、いまは淀にいる。大きな借金を拵え、最後の持ち物である郊外の土地を処分して金を送れ、と妻に速達を出したら、その返事が来た。若い男と家を出ると、妻は書いてきた。

 つまり事業を失敗し、妻に逃げられた男である。最後は競馬場で血を吐いて倒れるから、典型的な失敗者といっていい。それでも彼は、7番の馬と、2番の馬が気になったので、7−2の連を買ってくれ、と見知らぬ男に5000円を渡す。その馬券が当たったのかどうかはわからないまま、この短編は終わっている。もともとは、別冊文藝春秋の昭和25年12月号に載った短編だ。

 もっとないかと思って見つけたのが、「鮎と競馬」。オール読物の昭和29年7月号に載った短編で、井上靖全集の第4巻に収録されているが、井上靖小説全集第11巻に収録されていて、その愛蔵版(堅牢な箱入りの立派な本だ。ちなみに普及版はソフトカバー)が安く出ていたのでこちらを購入。こちらは初心者編といっていい。あまり競馬をやったことのない主婦が知り合いに馬券を頼むのだが、大金を賭けたのが不安になって、それを中止しようと奔走する話である。

「碧落」で競馬に溺れた男を描き、この「鮎と競馬」で競馬初心者を描き、もう縦横無尽といっていい。井上靖がここまで競馬小説を書いていたとは予想外である。こうなったら、この三編以外にもまだありそうな気がしてくる。引き続き調査を続行したい。