第56回

 年末・年始の休みは、簡単に部屋の掃除をしたくらいで、ボォーとしているうちに終わったしまった。 

 '87年の仕事始めは5日だった。
 忘年会の時と違い単に年の最初の日ぐらいはきちんとした格好でという理由で、毎年仕事始めの日は正装と決まっていた。15時の新年顔合わせの会に合わせ、13時に出社。本格的な仕事始めは翌日からなので、型通りの挨拶を編集長や他の社員たちと済ませてしまうと宴会が始まるまですることがない。周りを見回しても、状況は同じなのかみんな机に座って暇そうにしているか、のんびりと競馬新聞を広げて金杯の予想をしている。仕方なく(といっては何だが)オレは、担当のライターやデザイナーに新年の挨拶がてらの電話を掛けて回った。あわただしかった年末と比べるとなんとものんびりとした年の始まりだった。

 3月号では、モノクロ1ページを割いて、卒業おニャン子(国生さゆり、内海和子、立見里歌、高井麻巳子、樹原亜紀)の写真大募集の告知をしている。年末に発表されたこの5人の'87年3月での卒業発表を受けてのものだ。おニャン子クラブのメンバーは、'86年3月に河合その子、中島美春が卒業してから、同年9月に新田恵利、福永恵規、名越美香、吉沢秋絵、山本スーザン久美子が卒業していた。古参や人気のソロデビュー組が、次々と抜けることによって、視聴率の低迷が始まり、この5人の卒業が致命傷になるのではないかと業界内では囁かれていた。そしておニャン子の終焉は、アイドル冬の時代の始まりでもあった。世間がバブル景気に浮かれ始めた'87年のアイドル業界は、'97年のモーニング娘。の結成まで、経済界に先んじて"失われた10年"に突入することとなる。

 '87年初の4月号の編集会議では、アルバイトの川崎にいくつか担当を持たせることになって、オレの担当からは「お便り宅急ペン」「お便り宅急ペンEX」の2つの企画といくつかのコーナーのネーム書きの仕事が、彼の仕事になった。情報コーナーの「世間流行mono通信」も、との話も出たのだが、このページのアイドル情報はオレ自身にとっても情報源の一つになっていたので、真っ先に原稿を読みたいがため、泣く泣く辞退した(実際、関わっているページが雑誌全体の半分近くになっていたので、本音としては減らしたかった)ものの、多少とはいえ負担が減ったのは大助かりだった。

 4月号の特集は、2月3月とアイドル企画が続いていた流れに逆らって、オレの出した企画の「佐々木教のカメラでナンパ実践講座」に決まった(当然、担当もオレ。担当ページが減ったそばから増やしてます)。ナンパハメ撮りカメラマンの元祖・佐々木教は、どちらかというと白夜系のイメージが強いのだが、「投稿写真」には創刊号から「佐々木教の一丁あがり!」というコーナーを持っていて、'86年12月号からナンパしたコの部屋まで行って撮りまくる新コーナー「佐々木教のムリヤリ家庭訪問」をやっていた。

 教さんは、2か月に一度くらい編集部に顔を出し、編集長とお茶した後、帰りがけに、
「おみや、くれ」
 といって、サン出版で出しているエロ本一揃いを持って帰るのが常だった。見た目はコワモテだが、中身は下町の気のいいおっさん(失礼!)で、サングラスを取ると意外にやさしい目をしていた(それを隠すためにワザとサングラスをしているのではないかとオレは思っている)。教さんの担当は編集長だったが、この特集が教さんとの初めてではなかった。
「大橋、俺、用ができちゃって同行できないから、佐々木さんの撮影に行ってくれ。なんか、自分の部屋じゃ撮られたくないって、モデルのコが言ってるらしいから、部屋の方もよろしくな」 

 海外ロケに出る直前の11月下旬、突然編集長から命じられ、「佐々木教のムリヤリ家庭訪問」の撮影に同行したのだった。同行するのは構わないのだが、問題は撮影する部屋。グラビアの撮影なら、マンションスタジオで事足りるが、こうした企画ものの撮影となるとマンションスタジオでは生活感が全くなく、リアリティーに欠ける。社内のバイトの女のコに部屋を貸してくれないか聞いて回ったものの、誰もイエスと言ってくれない(気持ちはよーく分かりますが)。(部屋撮りができないと家庭訪問にならない、う~ん困った)と頭を抱えていた時に隣の「おちゃっぴー」編集部に来ていた、当時はまだ駆け出しのイラストレーターだったけらえいこに頼んでみたら、
「親と同居ですけど、自分の部屋はありますからいいですよ」
 二つ返事でOKしてくれたのだった(つまり、'87年2月号の「ムリヤリ家庭訪問」のお部屋は、正真正銘の"あたしンち"なのだ)。