第4回 高知のちょうちょのわらべ歌


 2014年、安藤桃子監督が「0.5ミリ」という新作映画を一番最初に公開したのは高知だった。桃子さんは、高知市内の城西公園に上映のための手製の特設劇場を作り、ここで公開をスタートした。この年の秋に、この劇場でライブをしてほしいというお誘いをいただいて演奏することになって、高知のわらべうたを調べた。高知は他県と比べて「からかい歌」や「ふざけ歌」が多い印象で、富山の薬売りをからかう歌や、藪医者のはげをからかう歌など面白いものが多かったが、びっくりしたのは童謡の「ちょうちょう」の原型と思われるわらべ歌「蝶々かんこ」があったことだ。
蝶々かんこ 菜の葉へとまれ なん菜がいやなら てん手にとまれ 
てん手がいやなら かんこにとまれ
 かんこ、というのは「かわいいこ」の意だという。なんて愛おしい風景だろう。蝶々が近づいてきて、じっと動きをとめた少女たちの一人に蝶々が止まる、止まられた子は嬉しい気持ちを抑えて、じっとしていただろう。
 驚いたのは、そのメロディだった。童謡の「ちょうちょう」が明るい長調なのに比べて、このわらべ歌は幽玄な雰囲気をもつ、短調だった。明治期にこの歌が改変、整形されたことは予想がついた。そもそも、童謡のほうは「菜の葉に飽いたら桜にとまれ」だったはずだ。しかし、桜花の蜜を吸おうとする蝶々なんてそういえばみたことないな、と思った。たいてい地面近くの背丈の低い春の花の周りを飛んでいるイメージである。桜を持ち出すあたりが「国」という単位を子供たちに周知させようとする明治政府の意図が透けてみえるようにも思った。わらべうたの短調から長調へと切り替えられていることも、西洋文化を取り入れようとする方向性の中で行われたのだろう。しかし、ものさびしい美しいわらべ歌の蝶々のメロディーをアレンジし始めると、俄然この短調バージョンのほうが蝶々が舞う世界観に近いように思えた。メロディの印象は重要である。短調の子守唄は、徳之島の回でふれたように雅楽経由の型にはまったものが多いように感じてあまり惹かれなかったのだが、この蝶々は短調がもたらすはかない感じがぴったりとはまっている。改めて長調の童謡バージョンを頭の中で鳴らしてみると凡庸で能天気にきこえてしまう。このメロディはどこから来たのだろうか。
 調べてみると、原曲は「幼いハンス」というドイツ民謡だった。少年が旅にでて、母のもとに帰るまでを歌う曲だ。これが、アメリカに渡り「Lightly Row」という舟漕ぎの歌になった。日本はこのアメリカ唱歌となった曲を輸入し、蝶々の歌詞をあてはめたのだ。この曲と出会った日本人は伊沢修二といい、愛知師範学校の校長などを勤めた教育学者だった。伊沢はもともと、幼児教育の祖とされるドイツのフレーベルの理論に親しんでおり、それをもとに、独自のお遊戯(遊戯唱歌)を編み出したりしていた。その伊沢が、明治8年米国留学にいき、アメリカの唱歌教育の第一人者だったメーソンに唱歌を習った際、「Lightly Row」と出会っている。

氏からラブレローの譜を余に示し、これは日本の子供の好に合ひそうな曲であるから、何か日本語で適当な歌を附けたら可からうと云った。そこで余は此蝶々の歌を附けて見た所が、偶然にも誠に能く適合、メーソン氏も大いに喜ばれた。(「楽石自伝教界周遊前記」)

「適当な歌を附けたら可からう」という自由さが楽しい。言ってみれば「Lightly Row」だって「ハンス」とは何の関係もない「適当な」歌詞が当てられているのだ。このとき、伊澤の脳裏にすぐに「蝶々」が浮かんだかはわからない。伊澤は帰国後、愛知師範学校の好調時代、教員だった野村秋足に歌詞を任せている。野村は郷里愛知のわらべうたの「蝶々」を参考に、次のような歌詞におちつかせた。
ちょうちょうちょうちょう、菜の葉にとまれ
なのはにあいたら、桜にとまれ、
さくらの花の、さかゆる御代に、
とまれよあそべ、あそべよとまれ
「君が代」を思わせる「さかゆる御代に」は、野村がつけたフレーズかと思われる。愛知のわらべうたの原型は「ちょーうよとまれ。菜の葉にとまれ。菜の葉がいーやなら、木の葉にとまれ」というものらしく、確かに「木の葉」というのは味気ない感じがする。しかし、現在の「さくらの花の 花から花へ」に慣れている身には、いきなり「さかゆる御代に」とくると思わず身構えてしまう。
 留学から戻った伊沢は、「音楽取調掛」という東京音楽学校の前身の機関を文部省に設置させ、自ら「音楽取調掛長」におさまる。そしてそこでの成果を「音楽取調成績申報書」で報告するのだが、この歌に次のような注釈を加えている。

其意は我皇代の繁栄する有様を桜花の爛漫たるに擬し聖恩に浴し太平を楽む人民を蝶の自由に舞ひつ止りつ遊べる様に比して童幼の心にも自ら国恩の深きを覚りて之に報ぜんとするの志気を興起せしむるにある也。(伊沢修二「洋楽事始 音楽取調成績申報書」)

 桜は天皇の「国恩」、蝶は「人民」にたとえられていた。伊沢は保守的な人物ではなかった。すでに述べたように、ドイツの幼児教育の祖フレーベルの理論に親しんだりお遊戯を考案したりと、当時の日本の幼児教育を西洋の理論を借りて切り開かんとした人だった。和洋折衷とは日本の文明開化を説明する際、よく聞きなれた言葉だが、この「胡蝶」はまさに、西洋のメロディーに皇国思想を盛り込んだ、明治日本の不思議な折衷の産物だったと言える。
 明治9年11月16日天皇夫妻が参列するなか、日本初の幼稚園が開かれた。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園だ。この時期の唱歌は、当初式部寮雅楽課の伶人たちに作曲依頼され、日本唱歌、保育唱歌といわれている。この日は「風車」「冬燕居」という曲がお遊戯つきで子供たちによって発表され、参列した人々は驚いたといわれる。
 遊戯唱歌は、愛知師範学校の校長時代の伊沢も、ちょうちょの短調のわらべうたを使って考案していた。伊沢がアメリカ留学でメーソンに出会う前からちょうちょのわらべうたに注目していたことが分かる。
 明治13年4月からメーソンは、伊沢らに呼ばれてお雇い外国人として来日する。師範学校でも唱歌教授にかかわり、このころ西洋風「蝶々」も完成したようだ。
 明治15年1月30、31日には、東京の昌平館で「音楽取調の成績報告のため」の発表会が開かれ、学習院や女子師範学校、東京師範学校付属小学校の生徒らによって、さまざまな唱歌が演奏された。西洋風「胡蝶」は二日目の31日に東京女子師範学校付属小学校生徒143名によって歌われている。ピアノ伴奏はメーソンだった。
 童謡「蝶々」研究の端緒を開いた外山友子はわらべうたの蝶々について1978年に次のように書いた。

「蝶々」はもともとはどんな旋律であったのか。現在うたわれていないのでわからないが、このわらべうた「蝶々」は江戸時代から東京でもうたわれていた。江戸時代の書に江戸で育った太田全斎の「諺苑」がある。江戸で集めた諺などを本にしたもので、その中に、「蝶々トマレナノ葉二トマレナノ葉カイヤナラ木二トーヲマレ」とある。(「幼稚園唱歌事始」『東洋音楽研究』第43号)

 その後、80年代に柳原出版から日本わらべ歌全集が続々と刊行され、各地に残る蝶々の歌の旋律も明らかになった。私が高知のちょうちょの歌に出会えたのも、各地のわらべうたを調べることができるのもこの全集のおかげだ。
 冒頭で紹介した高知のわらべ歌は香美郡香我美町のもので、高知県内でもさまざまなバリエーションがある。

蝶々とまれ、菜の葉へとまれ、三月いったら、菜の花みてる(高岡郡越知町)
蝶々とまれ、菜の花にとまれ、菜の花枯れたら、よしの葉にとまれ(須崎市上分)

 須崎市の「よしの葉」は一瞬不思議な気がした。「よし」は葦のことだ。「悪し」を連想させるので、「よし(良し)」と呼ばれるようになったというが、花の咲かないよしの葉にとまれというのは、どういうことだろうか。蝶々は春だけでなく秋も舞っているので、これは、時の移り変わりを表現したものだろうか。須崎の新庄川の川辺の風景の中で蝶々は葦にも止まったかもしれない。しかし、どうやらこれが、自然の風景をそのまま見て生まれた歌かどうか、というところは断言できないようだ。
 外山が書いたように、江戸ではこの蝶々止まれの歌が歌われていた。その背景には歌いながら蝶の紙のおもちゃを売り歩いた「蝶々売り」の存在がいるようなのだ。西山宗因は「世の中は蝶々止まれかくもあれ」と詠み、葛飾北斎が蝶々売りを描いたものが、「江戸名所図会」で確認できる。

この蝶々とまれは、文政の初年頃より一進境をなし、頗る時代化して細い竹の節をなめらかに削りとり、中心にゴムを入れ、両翼は紙にて張り、中心のゴムがよく捲けたのをみて手を放すと、ゴムの捲き反る反動で蝶が宙に飛ぶしくみになってゐた。(酒井欣「日本遊戯史」)

 この紙の蝶々は大小によって値段も異なり、極彩色のものは2文,3文して高かったという。竹のほかに、葦の節を抜いて作るものもあり、まさに「葦に止まる蝶」を蝶々売りたちが「蝶々止まれや~木に止まれ」と歌ってデモンストレーションしながら商売をしていたのだ。
 歌だけが伝わったのか、蝶々売りが高知にも伝播して伝わったものか、それとも高知の素朴な風景を歌った歌が江戸に伝わり、そこからインスピレーションを得た商売人が蝶々売りとなったか、今となっては知る由もない。ただ、たとえば後の回で取り上げる予定の東北発祥といわれる「異人殺し」のわらべ歌も、九州に伝わっている。陸路のみならず、海路を通じても人々が行き来し、それだけ歌が伝わりやすい状況があったのかもしれない。

 去年土佐清水に行ったとき、タクシーの運転手さんが須崎のご当地キャラクター「しんじょうくん」の話をしてくれた。「しんじょうくん」はゆるキャラで、かなりの上位にランキングする人気者らしい。それが、須崎の新庄川で1974年に目撃され、現在は生息が不明のカワウソのことだと分かるまでしばらくかかったが、須崎では、
「今も見るってさ」
とのことだった。
今なおカワウソの影が地元の人の目をかすめ、川岸の葦に蝶がとまることもあるだろうか。色々述べてきたが、私としては、この「よしの葉」に蝶が止まる風景が、高知の須崎の風景であってほしい。

 須崎は曽祖父の生まれた土地でもある。

2014年12月14日 永福町ソノリウム(グランドピアノ)