立川談志の最後の日々

文=杉江松恋

  • おれと戦争と音楽と
  • 『おれと戦争と音楽と』
    ミッキー・カーチス
    亜紀書房
    1,980円(税込)
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 昨年11月21日に亡くなった初代立川流家元・立川談志には、豪快磊落、天衣無縫といったイメージがつきまとっていた。あるいは傍若無人とも。それは談志本人が意図的に身にまとったものであり、1970年代までにマスメディアと共犯関係を築いて作り上げた防御の鎧でもあった。
 しかし一度でも談志の高座を見た者であれば誰もが知っている。談志がいかに自分の客を大事にする人であったかということを。その証拠に談志は、とてもとても丁寧にお辞儀をした。噺が終わり、席を立つ人たちに優しく声をかけた。到底、無頼漢の所業ではない。
 松岡弓子『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)は、談志の長女による介護の手記だ。題名は、談志が好んだデキシーランド・ジャズの名曲から。葬儀の際には、この曲が出棺時に流されたという。
 著者は母や弟、友人たちと共に258日間にわたって病床の父を世話し、その模様を日記として残した。5月23日の項にこうある。

 ----私は父の落語のお辞儀はすごいと思っている。生で見ると必ず涙が出てしまう。母は父の高座を見に行くことはない。もしかしたら、母はそれが嫌で父の高座に行かないのかもしれない。

 立川談志が最後に高座をつとめたのは3月6日のことだった。その後、悪化した喉頭がんの手術によって声を失う。胃瘻といい、腹部から胃に直接つないだ袋から栄養を入れることによって命をつなぐ処置も受けた。本名・松岡克由ではなく、立川談志として生きることを選んだ男にとって、商売道具であり生きるよすがでもあった「声」を奪われたことは何よりも衝撃だったはずだ。声が出せなくなった男の、声にならない叫びを家族は聞き続ける。しかし父に生きていてもらいたいと願う。その思いによって談志は家族とつながっていた。観客を悦ばせることに長年徹してきた人物が、最後の日々においては家族だけと向き合っていたのである。そうした私人としての談志の姿を知りたくなかった、というファンもいるだろう。しかし私は、何もかも、ありのままをさらけだす態度こそ故人にはふさわしいと考える。『ザッツ・ア・プレンティー』は世に出されるべき本である。
 声を奪われた談志にとって、唯一残った公人としての仕事は原稿執筆だった。

 ----今日届いた『週刊現代』「立川談志の時事放談」に、私のことを「文句のない親孝行である」と書いてくれていた。涙が出てしまった。私が高校生の頃に不良になったとき、父は山口洋子さん、田辺茂一さん、加賀まりこさんの三人に相談をしたそうだ。山口さんは「バチが当たったんだ」。田辺さんは「反省をしろ、反省を」。加賀さんは「不良のほうが親孝行するよ」と言ったとか。父はそこに「加賀まりこさんが一番合っていた」と書いていた。私は親孝行だなんて全然思っていない。だって、父がこんなにつらいのに助けてあげられないんだもの。(八月二十日)

 談志が最後に弟子たちと対面した場所が、いきつけのバー「美弥」だったことはすでに報じられている。そこでいかにも「立川談志」らしい別れの言葉を告げたことも。本書にはその模様も描かれており、美弥行きの直後にいかに談志が疲弊したかも明かされている。そうまでして弟子たちの前では師匠としての姿勢を崩さなかったのである。ところどころではあるが、弟子を思う気持ちについても書かれている。
 以下は、生前では最後の真打昇格者となった立川キウイについての記述である。

 ----今日はお弟子さんのキウイさんが真打ちのお披露目パーティーを東京會舘でやる。父が〈オレは行かなくていいのか?〉と弟に聞いていたが(注:筆談)、弟が「コメントだけでいいよ」と言うと、〈よくがんばった。世話になった。おめでとう〉という、父らしい優しいコメントを書いて渡した。「キウイさんに世話になんかなったの?」と皆で聞くと、〈美弥の階段〉。キウイさんがアルバイトをしていた父の行きつけの銀座のバー「美弥」には、とても急な階段がある。父が行くたびに支えてくれていたのだろう。そういうことを忘れないで、スッと書ける父は本当にステキな人だと思う。(五月二十一日)

 1月に入ってもう1冊、談志ゆかりの人の本が出た。
 ミッキー・カーチス『おれと戦争と音楽と』(亜紀書房)だ。1938年生まれで談志より2歳下のカーチスは遊び人の英国人を父に、映画マニアの聡明な日本人を母に持ち、幼少時を上海で過ごした。帰国後、極端に内気だった少年は音楽と出会って性格がガラリと変わり、「狂犬」と呼ばれるほどの暴れん坊になる。いわゆる「ロカビリー」人気は1958年2月に開催された日劇ウエスタンカーニバルで決定的なものとなり、カーチスは平尾昌章(現・昌晃)や山下敬二郎らとともに「ロカビリー三人男」と呼ばれマスメディアからもてはやされた。しかしカーチスはそうした一時的なブームに甘んじず、映画出演や海外演奏旅行などで独自の地歩を固めていく。本書の後半では、その歩みが紹介されているのだ。
 立川談志との交点は、人気絶頂期の日劇で生まれていた。元から落語好きで新宿末広亭に通い詰めていたカーチスは、日劇の舞台でしろうとながら一席をつとめたこともあった。客席でそれを、当時は二つ目だった柳家小ゑん、後の立川談志が観ていたのだ。
 あとになってカーチスは談志から言われたという。
「落語は寄席でと決まっていたものを、ああいうホールでやってお客を黙らせたんだから、あれは見事なものだ。あれで、落語は別に寄席だけじゃなくてホールで演ってもいいとわかったから、立川流を立ち上げたときにホール落語に切り換えたんだ」
 そのことが縁でカーチスは立川流Bコース(有名人コース)に入門し、立川藤志楼(高田文夫)に続く2人目の同コース真打となる。亭号を「立川」とせずに「ミッキー亭カーチス」を名乗ったのは、「ミッキーは自分の一門をつくれ」という談志の言葉があったからだ。
 文字通り地球を股にかけた自由人、ミッキー・カーチスの中にもまた、立川談志の遺伝子が受け継がれている。

(杉江松恋)

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