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「症例A」
評価:AA
以前あるムックで『永遠の仔』に批判的な精神病理学者の意見を読んだ。我々は無知で単純な生き物なので、映画や小説で描かれたことをそのまま鵜呑みにしてしまう傾向は確かにある。その道の専門家が危機意識を持つのは当然といえる。ノーマン・ベイツ…レザー・フェイス…ハンニバル・レクター…ディガー、おそらく<壊れた>虚構の犯罪者だけで人名辞典が一冊でき上がるだろう。<壊れ方>について誤った知識も蔓延している。だがどんな情報であれ、取り入れて咀嚼するのは個人の問題であって、作品のせいではない。なぜ『症例A』について語らずにこんな回りくどいことを書いているのかといえば、この作品が先の学者の批判に対する一つの解答であり、劣悪な凡百のサイコ・サスペンスに汚染された万人のための強力な解毒剤たり得ると考えたからだ。思わせぶりな題名に覗き見めいた期待を抱いた人は裏切られることになる。『永遠の仔』ではついに訪れなかった救いがこの小説にはあった。いまも<彼女たち>の魂の震えがこの手に残っているようだ。
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【角川書店】
多島斗志之
本体 1,900円
2000/10
ISBN-4048732315 |
●課題図書一覧 |
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「大聖堂の悪霊」
評価:C
「木の葉を隠すなら森の中、では死体を隠すなら?」とブラウン神父は怪盗フランボウに問うた。パリサーは古式豊かな犯罪を描くために十九世紀後半のイングランド、しかも聞きなれない町サンチェスターを選び、さらに二百五十年前の殺人を輻輳させた。アルフレッド大王や大聖堂にまつわる薀蓄をいくら並べられても、あいにくぴんとくるほどの知識がこちらに備わっていないので、あまり物語に身を任せられなかった。史料の発見についてもそう。部外者にはそんなに大したこととは思えなかったのだ。それはおまえに教養と理解力が欠けているせいだろう、といわれれば一言もない。格調高い作品になんだか申し訳ない気がしないでもない。『薔薇の名前』の二の舞だ。本が読者を選ぶという好例。
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【早川書房】
チャールズ・パリサー
本体 2,200円
2000/09
ISBN-4152083034 |
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「リセット」
評価:E
この作品は<女子高生のいま>を衝撃的に描いている問題作だそうだ。なるほど。よくもこれだけ嫌なことばかり詰め込んだものである。これらはすべて綿密な取材の賜物なのだろう。いくら信じ難くても現実に起こっていることなのだから目を背けるべきではない、といいたいところだが合点がいかない。別に作家だから世人を啓蒙しなければならない謂れはないけれど、めくるめくクスリの快楽だけを表現して、その後に待ち受ける禁断症状に頬かむりを決め込む作者の恣意的な態度は極めて不愉快である。まさか面倒だったのではあるまいし。問題は<女子高生のいま>ではなく、素材を扇情的に扱うこの<オヤジ作家の心根>の側にあるのではないか。これではテレビの猥雑な特番以下だ。
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【角川春樹事務所】
盛田隆二
本体 2,100円
2000/10
ISBN-4894569094 |
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「プラナリア」
評価:AAA
どの作品もさらっとした読みやすい文章なのに懐の深さがある。なにしろ普段こういう小説を読みつけていないのでうまく説明できないのがもどかしいが、本を読まない人が気の毒になるぐらい気持ちのいい時間を過ごすことができた。作者を周知の人なら当然のことなのかもしれないが、なぜこんなにも人の心の綾が生き生きと描けるのか。ルンちゃんのだらしなさ、チビケンの切なさ、カトリーヌのとまどい、美都の迷い、マジオの不器用さ、すみ江の可愛さを、私の拙い言葉で知る必要なんかない。すぐに書店へ直行すべきだ。この短編集には確かな<小説力>がある。過去の作品を遡ることは滅多にしない私だが、久々にそんな誘惑にかられた。許されるものなら下手な文章を書くよりAを400字ぶん並べたいくらいだ。いまからでも遅くないから、ミステリしか読まない人は即刻考えを改めたほうがいい。随分損してるぞ。げに普通小説恐るべしである。
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【文藝春秋】
山本文緒
本体 1,333円
2000/10
ISBN-4163196307 |
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「光源」
評価:C
チームによるものづくりのバランスが互いの譲歩ではなく、往々にしてその場の力関係で左右される側面が生じるのは想像に難くない。度を過ぎたエゴがもたらす緊張もまた、芸術を完成させる原動力になり得る。だからこの小説に真の悪役はいない。それぞれが立場に応じた正論を持っている。撮影現場で次々に持ち上がる軋轢の場面はとても面白かった。<選ばれし者の恍惚と不安>の正体は存外、嫉妬と打算なのかもしれない。そこが人間くさくていい。ただ、あまりに多視点で語られているために一人一人の抱えるドラマが稀釈された感は否めない。光源が多すぎて濃度が色あせてしまった。後日談で綴られる結末もいやにそっけない。一人勝ちした俳優がバニシング・ポイントに突っ込む姿は無理やりすぎて気の毒である。
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【文藝春秋】
桐野夏生
本体 1,619円
2000/09
ISBN-4163194800 |
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「あふれた愛」
評価:B
作家にとってはともかく、読者にとってベストセラーの功罪は相半ばしないというのが私の持論である。経済的に成功を収めるとより高みを目指したくなるのか、それまでの経歴を忘れて<文学>に擦り寄ったり、関心があさっての方向にずれていったりする。余裕のあまりいつしか冗漫さと文章力をはき違えてブレーキの壊れたアメリカの作家しかり、類稀なホラーをくだらない続編で台無しにしただけでは飽き足らず、なにを勘違いしたのか育児を語り始めた日本の作家しかり。寡作ながら優れたミステリを書き続けてきた天童荒太がこれからどうなっていくのか少し心配になった。なんか変に生真面目そうだし。作品が一人歩きしてもどうか無用な義務感だけは持たずにいてほしい。<癒し方面>への分水嶺には危険な足場がいくつも口を開けているのだから。
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【集英社】
天童荒太
本体 1,400円
2000/11
ISBN-408774373X |
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「アンテナ」
評価:D
オカルトは嫌いではない。うさんくささに人間の難儀な欲望や逃避願望が投影されるから面白い。あくまでも第三者としての考えである。でも実際に身近な誰かの重心が<あちら側>へ完全に傾いてしまったら、もう笑い事では済まされなくなる。かねてからネット上のエッセイで<あちら側>の住人だと確信していた人の小説なので、やっぱりなぁと思った。オカルトに救いを求めようとする人にかける言葉なんか私にはないし、その資格もない。フィクションなのだから、子供の失踪と超常現象を結びつけたって一向に構わないと思う。くどいようだが、自分との間に一線を引いて楽しめるならである。語りっぱなしの作者と波長がぴったり合ってしまう人にとって、この小説はちょっと気がかりだ。
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【幻冬舎】
田口ランディ
本体 1,500円
2000/10
ISBN-4344000358 |
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「血の味」
評価:AA
事件そのものではなく少年の隠し持つナイフ、その刃先の方向と対象がこの小説の骨子である。『雨の鎮魂歌』同様、大人社会とはまだはっきりと境界線が引かれている中学生に照準を絞ったのは慧眼である。教師やゲイの男に対する嫌悪と敬慕、これら相反する感情に日々揺れ動くのも人格形成の真っ只中にいる証である。世の中の仕組みが分かったような気になって、利害が判断の基準に居座った者はもうなにも見なくなる。<見ないふり>という選択肢もある。主人公の少年には中年の大人が醜い別種の生物であり、光り輝く預言者でもある。結局、ポケットのナイフは指針を見失った少年によって三度振るわれた。私の眼に映るのはモノクロームの映像。従って一度目の血の色は濡れた黒。だが二度目と三度目に迸った血は黒なのに限りなく鮮烈だ。贖いようのないなにかのために流された神聖な血である。「本の中には何もないのよ」ともらす母親にも、本を読み続ける寡黙な父親にも共感できる年齢に私もなった。
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【新潮社】
沢木耕太郎
本体 1,600円
2000/10
ISBN-4106006669 |
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