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   芸能人別帳
  【ちくま文庫】
  竹中労
  本体 950円
  2001/6
  ISBN-4480036377
 

 
  石井 千湖
  評価:A
  この中に登場する芸能人の最盛期を私は知らない。それでも興奮した。ひとえに竹中労の文章がイイからだ。短文でテンポがよくてまるでライヴを見ているかのような臨場感がある。こんなに生き生きした文章にはなかなかお目にかかれない。特に「怪優列伝」は面白かった。すっかり影響されて佐藤慶や三国連太郎の若かりしころの演技を観たくなったほど。誰が何と言おうが面白いものは面白い、つまらないものはつまらないと書く。シンプルだけどなかなかできない。読者を楽しませようという気概と権威に惑わされぬインディペンデント精神、深い教養。こんなルポライターがニッポン低国(竹中氏がよく使う言い回し)にもいたんだなあ!天晴れだねェ。

 
  内山 沙貴
  評価:A
  ワイドショーや週刊誌などマスコミは、スポットのあたる舞台にいる人々の足元のやぐらを嬉々として壊したがっているように見える。だから私はマスメディアが好きではないのだが、そんなマスコミ供給者の中にも真剣にルポライターとして生きていこうとする人がいる、これはちょっと驚きだった。週刊誌を読むときに感じる不快さがない。こういうルポライターがいるのならマスコミの食わず嫌いをやめてもいいかなと思った。ただこの著者の相当なファンもしくは彼の研究者ならいざ知らず、こんな漢和辞典のような本をドーンと大衆向けに文庫化するのはどうかと思う。そのときの風潮に合ったほかの記事と一緒に読んでこそ、その記事の真価がわかるものではないだろうか。ある人の記事を一気にたくさん読むものではないなと思ったのだが。

 
  大場 義行
  評価:C
  あまり読まないジャンルなので、未読にしてしまおうかと思ったが、読んでしまう哀しさ。結構嫌いなんだよなあと思いつつも、これが思わず楽しめてしまった。竹中労という人の、歯切れのいい口調、大きなものでも納得がいかなければブッ叩く態度、そしていい芸人に対する愛情なんかが感じられてなんだか心地良い。普通はむかつきが最初に出てくるんだけれども。初出がだいたい1970年となっているのだが、30年たって、なんと芸能ジャーナリズムなるものが下品になった事だろうと思わずにはいられない。ただ、さすがに生まれる前の原稿だけあって、余りに知らない芸能人が多すぎた。

 
  操上 恭子
  評価:C+
  独断と偏見、そして時に毒舌。それをここまで売り物にできるのはすごいな。この本でやり玉にあげられている42人プラスαのうち、私にわかるのは半分くらい。30年以上も前に書かれた文章をもとに編集しているのだから当然だけれども。この文章を書いた頃の作者・竹中労は30代後半。今の私と同世代だ。この文章からは、未熟ながらも自分なりに世の中を理解し評価できるという自負と、正しいと思ったことは正しいと間違っていると思ったことは間違っていると言わずにいれれない気骨が、はっきりと感じられる。よくその年でこれだけ根性をすえられるもんだ。それにしても、今だったら雑誌や新聞だって、こういう文章載せてくれないんだろうな。それも淋しい。

 
  小久保 哲也
  評価:E
  僕にとっての読みにくい文章という点では、『島津奔る』と双璧をなすと言っていいかもしれない。ただ、こちらの方は、ちゃんと意味も取れるし、文章に目が付いて行かないという訳でもない。ただただ、このお調子に乗ったような関東弁(?違う?)が、とにかく駄目なのだ。なんなんだ?この文章は?鳥肌が立ってしまうくらい、合わない。まったく信じられない。それでもがんばって、40ページまで読んだのだけど、そこでダウン。同じように未読了の『島津奔る』の場合は、頭の中での違和感だったけど、この作品は、もっと生理的な部分での違和感なので、始末が悪い。それは、僕が西日本文化圏出身のせいなのでしょうか。。。。うーむ。。。とにかく、これはもう仕方がないのでE。

 
  山田 岳
  評価:B
  「ニッポン国初代大統領石原慎太郎閣(略)は、満十八歳に達して身体健常である国民男子に、軍事訓練を含む二年間の集団生活を義務づけると布告した」という記述にひっくりかえりました。「いわく『これは、“徴兵制度”ではない。日本の若者に、愛国、正義、独立、進取の気概を回復しようとする精神大革命である』」現在の都知事の姿をみごとに予見しています。一方、京都府がお金をだして中村錦之助(のちの萬屋錦之助)主演の映画「祗園祭」が撮影されたとは、いまでは京都新聞でも知っている人がすくないのでは。ほかにも貴重な資料を満載。竹中労がややもすれば差別的な扱いしかうけてこなかったのは、サービス過剰の口語的文体に、その一因があるのではないでしょうか。明治の「言文一致運動」にもかかわらず、話し言葉で書かれたものは、いまでも、書き言葉のものよりも低く見られています。

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