仏文学者・映画評論家の蓮實重彦が70年代、立教大学で映画について教鞭を執り、その門下からは、今を時めく周防正行や黒沢清などを輩出したことは周知の事実である。その授業は、聞くところによると映画のフィルム外に映っていることへの安易な解釈を禁じたと言う。曰く「勇気はどこに見えたんですか」「友情は画面のどこにありましたか」と(日経2006年10月23日『人脈追跡』)。その精緻で、かつディテールに拘るポストモダン批評は、フィクションを巡る文芸批評の言説に無自覚的に跋扈する「赤」という色彩を手がかりに、安易な作品解釈に陥ったそれらを批評し、漱石やヴァージニア・ウルフ、ポーや鴎外と、多彩な変奏を重ねて時に氾濫し、時にひっそりと立ち現れる「赤」の「読み」を行ってゆく。それは、安易な解釈を免れ「意味が横滑り」し、「意味が曖昧だったり、矛盾していたり、ナンセンスに陥ったり」し、「テクスト空間が、言語的にいうなら無意味とも思える要素から記号が生じ」(ミカエル・リファテール)たりする。こうした、「読み」(解釈ではない)を可能にする蓮實重彦の呪詛的な言説はエクリチュールの肥沃な原野に僕たちを誘って止まない。そこは、「意味」が「深い」とか「浅い」とかいったことではなく、もっと唯物論的に横に、横に広がってゆく言葉そのものの「層と厚み」に身をゆだねることなのだ。 |