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第82回:柳 広司さん (やなぎ・こうじ)

柳広司さん イメージ写真

歴史上の史実や有名人を絡ませ、ハードボイルドなミステリ作品から、ユーモラスな謎解き譚まで、幅広い作風で楽しませてくれる柳広司さん。シュリーマンやソクラテス、漱石まで登場する作品が生まれる背景には、相当な読書遍歴があったのではと思ったら、やはり、タダモノではありませんでした! 記憶に残る本たちはもちろん、学生時代の読書会のエピソードなど、楽しいエピソードが満載です。

(プロフィール)
1967年三重県生まれ。神戸大学法学部卒。1998年、『挙匪(ボクサーズ)』で歴史群像大賞佳作。2001年、『黄金の灰』(原書房)でデビュー。2001年『贋作「坊ちゃん」殺人事件』で第12回朝日新人文学賞受賞。2006年に刊行した『トーキョー・プリズン』は日本推理作家協会賞の最終候補作品になる。他に、『新世界』『はじまりの島』『聖フランシスコ・ザビエルの首』『ジョーカー・ゲーム』などがある。

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【読書のスタンダードは名作全集にあり】

――柳さんは、幼い頃から読書家だったのでしょうか。

 : 小学生の時に、実家に児童文学全集があって。それがその後の読書にスタンダードになっていますね。講談社の『世界の名作図書館』全52巻、親戚のお兄さんが買ってもらったのを、ほとんど読まないからといってほぼ新品の状態でいただいて、ありがたく読みました。

――どんな作品があったのですか。

 : 「コンチキ号漂流記」「十五少年漂流記」「ロビンソン漂流記」とまあ、ぱっと思い出すのは漂流記ものばかりで(笑)。「海底二万里」「ガリバー旅行記」「宝島」「ニルスのふしぎな旅」もありました。“ここではないどこかへ”、という話が記憶に残っていますね。ハインラインの「大宇宙の少年」という、かなり遠いところまで行く話もありました(笑)。あとはシートンの「動物記」もありましたね。そこには狼王ロボの話だけ収録されていたので、そこから学校の図書館で片っ端から『シートン動物記』を読みました。

コンチキ号漂流記
『コンチキ号漂流記』
トール・ハイエルダール (著)
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十五少年漂流記
『十五少年漂流記』
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ロビンソン漂流記
『ロビンソン漂流記』
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海底二万里
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ジュール・ヴェルヌ (著)
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ガリヴァー旅行記(上)
『ガリヴァー旅行記(上)』
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宝島
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『ニルスのふしぎな旅〈1〉』
ラーゲルレーヴ (著)
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――読書が好きでしたか。

 : だったと思います。よく友人と話していても、子供の頃の記憶があんまりないので「お前ちゃんと生きとったんか」と言われるんですが、読んだ本だけは覚えていまして。わりとストーリーもそらで言えます。

――えっ、幼い頃に読んだものも覚えているんですか。

 : 先の話になりますが、大学の下宿で古本を1000冊くらい並べていて、友人に「この本はどんな内容か」と聞かれると、タイトルを聞いただけで主人公はこうでストーリーはこうで…と説明できましたね。もちろん、途中でやめてしまった本は別ですけれど、面白く読んで、本棚においてあるものはたいてい言えました。

――すごい記憶力ですね。「ロビンソン漂流記」や「シートン動物記」は、その後、ご自身の作品にも出てきますね。デビュー作の『黄金の灰』もシュリーマンのお話ですし。

兎の眼
『兎の眼』
灰谷健次郎 (著)
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 : 子供の頃に読んだものでは、夢を掘り当てた人としてシュリーマンの印象が強かったんです。ただ、自分がこれだけ読んで知っているんだから、みんなも知っているんじゃないかと思って書いたところもあったんですが、意外に知られていなくてがっかり(笑)。あとは灰谷健次郎さんの『兎の眼』などを面白く読みました。

――子供の頃にルパンやホームズを読んだという方も多いと思いますが、それは。

 : 『世界の名作図書館』に入っていたのでもちろん読みました。でも、コナン・ドイルって小学生が読んでももう一つピンとこない。おこがましい言い方ですが、ドイルって文章がすごくうまい人なんです。文章の面白さに気づいたのは中学や高校の頃で、その時は新潮文庫版で読みました。

――なるほど。その後の読書は、主に学校の図書室で本を選んでいたのですか。

 : 図書室のものが多かったですね。シートンのほかの作品を探して読んで、そこから日本の動物記として椋鳩十を読んだり、ハインラインの流れで、SFシリーズをひととおり読んだり。何かとっかかりがあるとその方向へ流れていく感じでした。

【詩の面白さに目覚める】

――中学生時代はいかがでしたか。

汚れつちまつた悲しみに…―中原中也詩集
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 : 中学に入ると急に小説を読まなくなりました。赤面なんですが……詩ばかり読んでいたんです。中原中也、宮沢賢治、山村暮鳥、三好達治…。同じ詩を何度も読んでいました。紙に書いて机の前に貼ったり。中原中也の有名な「ホラホラ、これが僕の骨だ、(後略)」というのを貼っていて、親父に「お前、大丈夫か」と真顔で聞かれた記憶があります(笑)。でもおかげでその頃書き写した詩はほとんどそらで言えます。中学生の記憶力はたいしたもんだなと思います。

――再び言いますが、すごい記憶力です。

 : でも詩というのは基本的に覚えなきゃ味わえないものがありますから。詩というのも“ここではないどこかへ”一瞬で連れていってくれるところがある。三好達治の「蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのやうだ」というすごく短い詩だって、地面で引かれていく蝶が、次の瞬間に大海原に浮くヨットになっている。一瞬で世界が作られる、そこに惹かれました。それと、日常的に使っている言葉でなく「雨が瀟瀟と降っている」の「瀟瀟と」という言葉が新鮮で、ついでに漢字まで覚えちゃうんですよね。

――自分で詩を書いたりはしなかったのですか。

 : 小説を書き始めたのが25、6歳なんですが、それまで日記はおろか絵日記すらつけていませんでした。中原中也や暮鳥なんかを書き写していると、それだけで打ちのめされるところがある。自分で書くのは無理だと思っていました。

【年頃少年たちの読書合戦】

――その後、小説は読まなかったのですか。

 : 本当の意味で読み始めたのは高校に入ってからですね。家庭の事情で、ひとり暮らしを始めたんです。高校から近い、民家の離れを借りて。するとたまり場になるわけです。夜中までというか、朝までみんなでうだうだ喋っていましたね。金もないし携帯もテレビもないですし、それで「自分はこんな本を読んだけれどどう?」という感じで、「俺は三島がいい」「いや、太宰だ」「いや澁澤だ」と言っていたんですね。お互いに新しい本を見つけてきては面白かったと言い合って、誰かが挙げた本を読んでいないのが悔しくてじゃあ読むか、という。日本の古典のほかにもレイモンド゙・チャンドラーやウィリアム・アイリッシュ、ダシール・ハメットやロス・マクドナルドなんかも読みましたね。薦めあいというよりは、どれだけ珍しい本を読んだかの自慢大会でした。「あの本が面白いなんて、甘いんじゃないの」と批判するためだけに読みました(笑)。

――三島由紀夫から海外のハードボイルド作家まで。

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饗宴 ソクラテス最後の事件
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贋作『坊っちゃん』殺人事件
『贋作『坊っちゃん』殺人事件』
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 : 節操がなくて(笑)。ある程度純文学に偏ると誰かが「いやいやロスマクがいいんだよ」と言い出して、そうするとそっちにだーっと傾いて。私も意外なところを狙ってプラトンの『ソクラテスの弁明』を挙げましたね。「読めば、なぜソクラテスは死ななきゃならなかったんだ、というプラトンの悲痛な叫びが聞こえてくるんだぜ! プラトンの叫びを聞け!」と言って「そーかあー?」と言われていました(笑)。

――その読書体験がソクラテスが登場する柳さんの作品『饗宴(シュンポシオン)』になるわけですね。

 : あとはカミュなんかも流行りでしたね。覚えているのが、チャンドラーの話になった時に、「いや、日本で最初に書かれたハードボイルドは『坊っちゃん』だろう」と言って、みんなが意表をつかれて「おお!」と言っていたこと。

――高校生の頃に夏目漱石の『坊っちゃん』を読んで、これはハードボイルドだと。

 : はい。その時のことがあったから後に『贋作「坊っちゃん」殺人事件』を書いたんです。あとは教科書に載っていた中島敦の『山月記』をどこまで暗記できるか競争して、結局最後まで覚えたりもしました。高校生の記憶力も恐るべし。まあ、短いですからね。「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、……」。

――はあー。それにしても高尚な高校生ですね。そうやってたまり場があると、いろいろ悪さをしちゃうように思うんですが。

 : いや、僕たちだって麻雀をしながらの話です(笑)。李白の「両人対酌して山花開く 一杯一杯また一杯 我酔うて眠らんと欲す 卿しばらく去れ」といった状態でしたし(笑)。近所から苦情も来ました。それに、次の日学校を休んだりもして、出席日数ギリギリでしたね。あの授業はあと何回休める、ということを数えて、女の子と遊んで、という、チャラチャラしたアホンダラ高校生でした(笑)。

――女の子に小説について熱く語ったり?

 : そんなことしたらドン引きされるでしょう(笑)! さすがにしていません。でもゴダールやフェリーニの映画に連れていって、3分で爆睡されたりはしていました(笑)。

――高校時代の読書で、ほかに強烈に覚えているものはありますか。

 : ドストエフスキーには打ちのめされました。『罪と罰』から入って『悪霊』を読んで、やはり『カラマーゾフの兄弟』は圧倒的でしたね。(両腕を大きく上下に広げて)ここからここまで書けるのか、と。地面と這いつくばっているところから、天上の高みまで書けるのか、と圧倒されました。それから年に1回は読み返していました。なので最近の新訳を読むと、ここの文章が違うじゃん! となる。違うわけではないのですが(笑)。新しい訳が読めないんです。チャンドラーもそう、ドイルもそう。読み込んでいる翻訳ものは、新訳を読んでも違和感を覚えてしまう。

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カラマーゾフの兄弟〈上〉
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【果敢に難解作品に挑戦】

――大学生時代はどのように過ごされたのですか。神戸大学の法学部に進まれたそうですが。

 : 文学は大学でやるものじゃないだろうと思って、法学部に入ったんです。ここでもまた下宿でひとり暮らしをしていたんですが、何人かの友達と、「今読まなかったらいつ読む本」の読書会をやろうということになって。学年も違う4、5人の集まりでした。ミルの『自由論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、定番・マルクスの『経済学・哲学草稿』、フォイエルバッハの『ヘーゲル哲学批判』、ハイデッガーの『存在と時間』…。今読まなければ、死ぬまで目を通さないだろうと思うような本を相当読みました。当番を決めて一人がレジュメを作ってくるんです。

――そ、そして喧々囂々の討論をっ!?

 : それが、さっぱり分かりませんでした(笑)。いわゆる場末の碁会場状態ですね。長考に次ぐ長考で「このレジュメはこれであっているのか?」「うーん」「うーん」「それはまあそうなんじゃないか」「じゃ、次回の課題ってことで」という流れで。

――でも、読書会は続いたんですよね。

 : 誰かが「やめたい」というのをみんな待っていたんじゃないですか。なのに、次はこれがいい、という本がどんどん難しくなっていく。さすがに『資本論』は「無理」といって止めました。その反動で、という言い方もヘンですが、エンターテインメントもすごく読んでいましたね。神戸は古本屋がすごく多くて、3冊で100円とか、4冊で100円という文庫を数千円分買ってきては下宿にどーんと置いていました。「なんでこんな本読んだん?」と聞かれるような本もありました。「安かったから」というだけなんですけれど(笑)。

ノルウェイの森(上)
『ノルウェイの森(上)』
村上春樹 (著)
講談社文庫
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『存在と時間(上)』
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――その頃、1000冊蔵書があったわけですか。どんな本が記憶にありますか。

 : 当時は村上春樹の『ノルウェイの森』が大ベストセラーになっていて、つきあっていた彼女が「面白かった」というので借りて一晩で読んで、「どうだった」と聞かれ「うん、犯人は**で、動機はこれで、トリックはこれだ!」と言って呆れられたことがあります。

――『ノルウェイの森』を推理小説として読んだという。

 : ミステリ的に読むと、いろいろネタがあるんです。今も歴史の別読みみたいな作品を書いていますけれど、当時からひねくれていた読み方をしていまして。ハイデッガーの『存在と時間』も、ミステリ的に読むことができたので、読書会で読んだ本の中では“比較的”面白く読めました(笑)。純文学でも、そこに書かれていないことを読み取って「ここで死んだのは実はこうだからだ」という読み方をしていましたね。

――推理小説が好きだったのですか。ハードボイルド以外あまり名前があがっていなかったように思いますが。クリスティとかクイーンとかは。

 : もちろん、高校生の頃に読んでいます。でも、仲間にはアガサ・クリスティーが面白いとは言えませんでしたね。それよりもチャンドラーだとかアイリッシュだとかをつい、言ってしまうんですよね(笑)。

――ところで、相当な読書量だと思うんです。年間どれくらい読んでましたか。

 : 大学の頃は500冊くらいですかね。タイトルだけはメモを取っていたので分かるんですが。先日対談した田中芳樹さんも「そんなもんですよね」とおっしゃっていました。もっとも、例えばフレデリック・フォーサイスなんかも上・中・下巻で3冊と数えていましたから。

――読むのははやいのですか? それでストーリーもそらで言えるというのが驚きです。

 : 読むのははやいですね。友達に借りた本を読んで返すと「もう読んだんかい」と驚かれましたから。ストーリーは、自分で書き始めてからは覚えなくなりました。不思議なんですけれど。自分で書いたものも全部覚えていたら、次が書けないんですね。忘れないと次にいけない。デビュー前、新人賞に応募していた頃なんかは原稿がなくても自分が書いたものは80枚分くらいは一言一句違わずに覚えていました。それをやっているうちはデビューできなかった。今では文庫化の時に読み返しても覚えていなくて、どう展開するんだろうと思うほど。自分の中で、何か切り替えがあった気がします。

【自分が読みたくて、小説を書き始める】

――卒業されてからは。

 : 会社勤めを4年半。会社の寮にはいっていました。それまでは全然買うことのできなかったハードカバーの本を買えるのが嬉しくて、新刊をどんどん買って読んでいました。掃除をしてくれる寮のおばちゃんが「あんた本買ってばっかやな。ちょっと減らさんと片付けられへん」って言われていましたね。買うのは、それまでに読んで面白かった作家さんと、書評などで面白そうだったものと、あとは匂いで。その頃出ると必ず買っていたのは、佐藤亜紀、奥泉光、ウンベルト・エーコ。このへんは新刊が出ると考えるまでもなく買っていました。仕事があるので読む量は圧倒的に減りましたが。

――ご自身で小説を書き始めたきっかけは。

 : 1か月くらいの研修のようなものがあったんです。なかなか本を読む時間はないだろうと思いつつ、それでもこれくらいは読むだろうという冊数を持っていったものの、すぐ読み終えてしまって。読むものがなくなった時、じゃあ書くか、と思って(笑)。それまでは絵日記すら書いていなかったので、どういう文章を書いていいのかも分からなかった。ちょうどチャンドラーの短編を読み返していたので、チャンドラーの翻訳文体で、研修期間に一編書いてみたんです。ハードボイルドを日本に翻案したようなものです。

――探偵が出てくるような。

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(「真珠は困りもの」収録)
レイモンド・チャンドラー (著)
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 : 探偵が出てきて、巻き込まれ型の。チャンドラーの「真珠は困りもの」という短編が下敷きです。それで、書いちゃったんでどうしようかと思い、当時新人賞の公募がたくさんあったので、出してみたら最終候補まで残ったんです。それがよくなかったですね(笑)。それからです、書き始めたのは。

――はじめて書いて最終候補ですか。

 : 完全にチャンドラーの焼き直しですから。残しちゃっていいの、というところもありました。でも最終選考で大沢在昌さんが「これはチャンドラーの焼き直しだよ」と指摘してくださって、ほっとした気分で。そこから会社を辞めて書き始めちゃったんです。そこからが長かった。

――コツコツと書き続ける日々ですか。

 : 退職金をつかんでヨーロッパを半年ほどブラブラもしたのでそれほど勤勉でもなかったのですが、図書館に半日こもったり。お金がなくなると肉体労働をしながら書いていました。本は読みましたね。自分自身の文体が分からなかったので、チャンドラーのパスティーシュを書いて、それも最終候補になって大沢さんに「ここを書くならこうすべきだ」と指摘され、ああ、チャンドラーのパスティーシュをやっていても1番にはなれない、ならばいろいろやろう、と思い立って。そこから村上春樹風の純文学を書いてみたり、司馬遼太郎を真似してみたり、あれこれ文体を探っていました。それぞれ出すと最終候補にはなるんですが、デビューするまでには時間がかかりました。5年くらいかな。最終的には、自分自身の文体なんてないんだ、と開き直るしかなかった。

――歴史上の人物や、作家を登場させる作風はその頃から?

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柳広司 (著)
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 : デビュー作はシュリーマンを題材にしたものですが、その前に新人賞で最終候補に残ったのが、歴史関係のものと、ミステリ関係のものだったので、それをあわせちゃえ、という。両方の要素を持ったものを書いたのが『黄金の灰』でした。書いてはみたけれど、どこの新人賞に応募すればいいのか分からない。でも6回も7回も新人賞の最終候補に残っていると、何人かの編集者と話ができる機会があって。それで、原書房さんはどうかというアドバイスをもらって、それが結果的にデビューにつながりました。と同時に、応募していた『贋作「坊ちゃん」殺人事件』が朝日新人文学賞を受賞して。奥泉さんがその前に『「吾輩は猫である」殺人事件』を書かれていたので、タイトルをつけた時点で仁義をきっておこうと思い、奥泉さんが選考委員をされていた朝日新人文学賞に応募した、というのが舞台裏です。

――読んでみて、ああ、『坊っちゃん』って実はこういう話だったのかも! と思いました。

 : 読んでいる時からこういう話だよなって自分でも思っていたんです。そういう風に読んでしまうんですよね。

――『黄金の灰』のシュリーマンのお話も、面白かった。船が難破してオランダ領に流れついた話、ゴールドラッシュに沸くアメリカで儲けた話など、どこまでが史実でどこからがフィクションなんだろうと思いつつ夢中で読みました。

 : シュリーマンは詳しい伝記を読んでいると、いろいろと不思議な隙間があるんです。それを埋めるためには、こういう物語があるんじゃないかなと思って。史実よりもリアリティのあるものを書きたいとは思っています。

【しがみつくように本を読む】

――デビュー後の読書生活は。

 : 肉体労働をしなくてよくなった分、時間ができたので読書量は増えました。ただ、資料もありますから…。それでも資料を別にして月10冊くらいはしがみつくように読んでいます。これも田中芳樹さんと意見が合ったんですが、他の人の小説を面白く読めなくなったら、終わりだなって。自分が書いていくためにも、人が書いたものをせっせと読むようにしています。自分で書くよりも、読んだほうが面白いですから、ほっとけば読んでしまう。

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虚夢
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薬丸岳 (著)
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――読む本は厳選されているのですか。

 : 未だに図書館に通っています。趣味は引越しなんですが、図書館を中心にぐるぐるまわっている感じです。図書館では古典文学全集みたいなものを借りて読んだり。読み残していたフォークナーやD・H・ロレンスなど、翻訳ものが多いですね。日本の作品では、最近では佐藤正午の『5』と薬丸岳の『虚夢』が、それぞれまったく違う作品ですけれど、それぞれエンターテインメントのある種の可能性を提示しているなと、印象に残っています。

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百万のマルコ
『百万のマルコ』
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吾輩はシャーロック・ホームズである
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柳広司 (著)
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シートン〈探偵〉動物記
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柳広司 (著)
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――『黄金の灰』のほか『はじまりの島』のダーウィン、『百万のマルコ』のマルコ・ポーロ、『吾輩はシャーロック・ホームズである』のホームズというか夏目漱石。歴史上の人物の事件を扱った作品のほかに、『新世界』の核兵器、『トーキョー・プリズン』や最新刊の『ジョーカー・ゲーム』など戦時を題材に扱ったものも。幅広いテーマを扱っていらっしゃいますが、まだまだ書きたい題材はありますか。

 : 書きたいから書いている、というよりも読みたいから書いていますね。こんなのがあったら読みたいな、という。自分自身は第一の読者だと思っています。それこそ、読むものがなくなったから書き始めたわけですし。読者の方が楽しめるように、といっても読者、というのがあまりにも漠然としているので、第一の読者は自分、第二の読者が編集者と思っています。

――新作『ジョーカー・ゲーム』は、戦時の陸軍内に設立されたスパイ養成学校で学んだ精鋭たちの活躍が描かれます。発想の出発点はどこにあったのですか。

 : 『トーキョー・プリズン』を書いた時、資料を読んでいて、陸軍の中のそうした学校で「死ぬな、殺すな」ということを教えていた、ということをちらっと見て、メモにとっておいたんです。基本的にあの頃の軍隊は「死ね、殺せ」なのに、と意外に思って。それを徹底したらどんな風になるんだろう、と考え、完全な虚構として作ったのがこの作品です。時代背景などの枠組みは借りて、あとは完全な創作です。

――どの短編もこうだと思っていた事実が、がらりと様相を変える。そこが面白いなと思いました。

 : こうだと見えていた世界がガラッと変わるというのはミステリの面白さでもありますよね。もともと好きだった詩の世界も、蟻がヨットになるなど、視点ひとつで別の世界になる。そういう面白さってあるなと思っています。

――『坊っちゃん』をハードボイルドとして読むなどのほかに、『ジョーカー・ゲーム』の中でも『ロビンソン・クルーソー』で主人公の他文化に対する尊大な姿勢を指摘したり、『シートン(探偵)動物記』でも『狼王ロボ』を狼の視点から見たりと、つねに多角的な視点で公正に物事を見る姿勢が印象に残ります。

 : こういう風に物事を見て欲しいなと思って書いている部分はあります。書き方によって、簡単に違う視点が見えてくる。多方向から物事を見ておきたい、というのはあります。

――今後の刊行予定を教えてください。

 : まずは『ジョーカー・ゲーム』が出たばかりであること、それと来年の1月は理論社からヤングアダルトを一冊出します。これは高校の時に好きだった『山月記』をもとにしたものです。

――ヤングアダルトは『漱石先生の事件簿』も出されていますが、読者層が若い場合に意識することは。

 : いつも小説を書く時は17歳の自分と50歳の自分、両方が面白く読めるものを書こうと思っているんですが、ヤングアダルトの場合は、もう少し下げますね。13歳の自分も面白く読めるものを、と考えます。

――ああ、いつも17歳のご自身と50歳のご自身を読者として想定しているんですか。

 : アホンダラ高校生だった自分と、おそらくアホンダラオヤジになっているだろう自分を、です(笑)。

(2008年8月27日更新)

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