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峠

【新潮文庫】
北原亞以子
定価 620円(税込)
2003/10
ISBN-4101414173

  池田 智恵
  評価:A
   人間が生きてゆくというのは相当に面倒なことで、他人を峠から突き落として殺してしまったり、強姦されたり、女房に捨てられたりという、「考えもしなかったこと」が起こりうる。じゃあ、そういう状況で力のない人間は、いったいどうするのだ。ということを柔らかくやさしく書いた短編集。副題に「慶次郎縁側日記」とありますが、慶次郎が出てこない話や、出てきても事件を解決できずに終わるあたりが面白いと思いました。しみじみとした話ばかりなのに、あんまりメソメソした感じがないところも気持ちよかった。上質な小説だと思います。

 
  児玉 憲宗
  評価:A
   胸を打つ江戸の人情ばなし。
 例えば、表題作『峠』では、四方吉が誤って追剥を谷底へ突き落としてしまった場面、間違って人を殺めた弟を救うためにおいとが奔走する場面など、いくつもの場面で北原亞以子さんの文章の巧さが光る。また、登場人物の人物像が誰一人として手を抜かず丁寧に描かれていることも惹きこまれた大きな要因と思う。
 主人公であるはずの慶次郎が脇役となって物語は展開されること、慶次郎がスーパーマンでなく、弱さも兼ね備えた人間味溢れるキャラクターであることに一層好感が持てる。

 
  鈴木 崇子
  評価:B
   市井の人々に起るさまざまな出来事や事件を描く時代小説集。熟練の技、上手いなあと思うのだが、それで終わってしまった。例えばデパートの物産展で「伝統工芸の職人技・実演コーナー」を見てすごい!と思うのだが、その工芸品自体には興味が湧かないというような。これは趣味の問題かも。
 時代小説の形をとってはいるが、そのまま現代に移しかえてもおかしくなさそう。テレビや雑誌の人生相談に登場しそうな問題だって描かれている。たとえば、「蝶」は熟年離婚についてだし、「お荷物」は働かない夫に悩む妻の嘆き…。もちろん安っぽい人生相談と違って、安易な励ましや気休めでは終わるはずもない。
 真面目に生きていてもそうでなくても、ふとした心の迷いからも偶然からも、人は時としてとんでもない落とし穴にはまってしまうという訳だ。それでも人はひたすら歩いていくしかないんだなあ〜、とため息が出そうになる作品集。

 
  中原 紀生
  評価:B
   「慶次郎縁側日記」シリーズの第四弾。NHKあたりの連続時代劇でドラマ化されたら、きっと地味ながら見応えのある大江戸人間模様が深く心に残る映像になるだろうと思う。シリーズの最初からじっくりと読み進めていたならば、たぶん先を読むのが惜しいほどのコクのある物語体験を味わえたのではないかとも。残念ながら本連作の登場人物たち、とりわけ元定町廻りの同心にして今は隠居の身で酒問屋の居候・森口慶次郎の魅力がまだ腑に落ちない。私の中で、北原亞以子の人情譚に耳を傾けるフォーマットが出来上がっていない。口説きと語りに身をゆだねる愉悦。もう少し読み込んでいけば、そういった極上の時間を堪能させてくれる器になりそうな予感がする。

 
  渡邊 智志
  評価:B
   シリーズ物の読者でないと、キャラクターの役割分担にすんなりとついていけないです。しばらくの間、誰が誰なんだかさっぱり判りませんでした。ミステリーとして読んだら、結末に肩透かしを喰らわされます。慣れるまで何度か読み返す必要がありましたが、やがて巧さにため息が出るようになりました。ここで描かれている道徳観は、現代の物とも当時の物とも微妙に異なるような気がします。正義を為すことと裁きで決着をつけることとは異なる結果になりがちですが、そこに生じてしまう悲喜を描くに留まっていないのが本作品群。もう一歩進んで、この作者ならではの価値観が色濃く滲み出しているので、このように不思議な後味のぶっつりと途切れた終わり方になるのでしょう。どうとでも解釈することができるような気もしますし、どう解釈する必要もない気もします。どちらも許されるということは、小説として懐が深い証拠。歴史物なのにこういう書き方は新鮮です。