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白い薔薇の淵まで
白い薔薇の淵まで
【集英社文庫】
中山可穂
定価 460円(税込)
2003/10
ISBN-408747626X

  池田 智恵
  評価:B+
   「高校生の書いたものみたいだ」と思った。下手くそだという意味ではない。高校生ぐらいの人間が持つ、ある種の切実さを感じさせるものがあったのである。先に「下手くそだという意味ではない」と書いたけど、だからといって小説として巧みではない。主人公の二人以外の人間はわりとおざなりに書かれているとか、エロティックな描写は多いものの全体的に色気が感じられないとか、色々つっこみどころはある。だが、取りあえずそれを置いて読み進めさせてしまう迫力がある。それは、作者の「当事者」としての思いが作品に反映されているからなのではないか、とついつい勘ぐってしまう種類の迫力である。そういう意味で、非常に面白い本だと思う。(なんだか貶めているようだ……)

  延命 ゆり子
  評価:A
   しんどい……。それがこの壮絶な愛の記録を読み終えた感想だ。評価するのも忘れていた。集中しすぎだ。主人公のとく子は小説家の塁と運命的な出会いをする。はじめはまずお互いの体を求めあうだけのふたり。他愛もない喧嘩ばかりをして普通のカップルのようにも見える。ところが仲が深まるにつれてその関係が昇華され、その切なさだけが浮かび上がってくる。お互いがお互いなしではいられない。狂おしいまでに求め合い、破綻へと向かってゆく。二人は言う。「これ以上したら死ぬわ」「本望だよ。ふたりで抱き合いながら死のうよ」。こんな陳腐なセリフを臆面もなく口にすることが出来る幸せよ。愛する人の腕に抱かれてこのまま死んでしまいたいと思うその恍惚よ!ああ!しかし、激しすぎる恋愛は中毒になる。その強烈な結びつきはエスカレートする。もっともっと、と相手を縛り付ける。その状態はひどく甘美ではあるが、バランスが悪く、歪んでいる。その激しすぎる愛ゆえに全てを失ってしまうことを、なぜ渦中の二人は気づかないのだろう。身も心も振り絞るようなこの恋愛、読んでいるだけで疲れ果てました。

  児玉 憲宗
  評価:B
   この作品を読んで、自分の羽を抜いては機を織る鶴を思い浮かべた。主人公の「わたし」は己の羽を抜きながら塁との愛を貫き、著者の中山可穂さんは羽を抜くことによってこの作品を織った。そんな印象をうけたのだ。 「究極の恋愛小説」と評されたこの作品は、女と女の恋愛小説である。塁との何気ないやりとりに小さな幸せを見つけた「わたし」がふともらした「これからはもう、ただやさしいだけの男とは物足りなくてつきあえないだろうな」という言葉には、男の入り込む余地はなく、とても敵わない。けれどもこの愛に美しさはなく、陰惨で脆い。このことは余計にリアリティを感じさせ、じんわりと心を揺さぶるのだ。

  鈴木 崇子
  評価:AA
   突然始まる恋ってのはドラマティックな恋愛の定番であり王道。ありそうもない偶然も必然としか思えなくなってくる。離れ難い人に出会ってしまったのがすべての始まりで終わりであるってところが、切なくて哀しい。  新人女性作家塁と普通のOLクーチがあまりにも自然に惹かれあっていく様子に、抵抗なく物語の世界に入ってしまった。相手が同性だろうが異性だろうが恋愛感情には関係ないのだなあ。それに対照的な2人がすごく魅力的。塁の繊細で激しいところ、クーチのすっきりとした健全な女らしさがよい。  これが男と女の恋愛であればどうだったのか?と思えば、案外平凡な話と感じたかも知れない。それに私の想像力不足か、ラストが少しわかりにくかった。それでも、大感動! こんな恋愛に憧れるけど、後遺症で身も心もスカスカになりそう。重たいのにはかなくて、生々しいのに清々しい恋愛小説。

  高橋 美里
  評価:A+
   印象に残る出会いというのはどんなものだろう?この作品の彼女達の出会いは、偶然の産物だった。偶然入った深夜の書店で探していた新人作家の本を見つけた「わたし」は隣りから突然声をかけられた彼女に惹かれていく。その彼女は、「わたし」が探していた本の作者だった。2人は瞬く間に恋に落ち、溺れ、その出会いはお互いに忘れられないものとなっていく。距離を置いたり、感情的になったり、そんなことを何度も繰り返しては離れることは出来ず、お互いを求めあう。「秘めた恋」だから美しいと感じる? それだけではありません。この作品の力強さはそんなことを超えた部分にあると思います。2人の求め合う力が余りに強くて、読みながら何度も胸が苦しくなりました。

  中原 紀生
  評価:A
   女性作家の手になる官能小説(性愛小説)には、それがよく出来た作品であれば必ず、文章の力によって文章表現を超えた底知れぬ愉悦の世界が克明に描写されていて、読むたびになにやら血なまぐさい感覚にとらわれ、分別分離を旨とする青白い理性が自己崩壊の恐怖に慄えるのが常だ。といっても、とっさには小池真理子さんの名前くらいしか浮かばないのだけれど。初めて読んだ中山可穂の山本周五郎賞受賞作品は、まるで完璧なホラー小説家かなにかのように、生理の奥深くに働きかけてきて、名状しがたい不安な残像を刻印していった。それがあの山本周五郎の名にふさわしい世界だったのかどうか、ちょっとほほえんでしまうような気がしないでもないが、ジャン・ジュネの再来と賛辞を与えられた新人作家・山野辺塁の像は、鮮烈だがどこか紋切型で、この鋭いまでの凡庸さこそがこの作品の真骨頂なのかもしれない。

  渡邊 智志
  評価:C
   同性愛を語ることはタブー(らしいですね)。同性愛者であると宣言することを「カミングアウト」と呼び、眉をひそめたり勇気ある行動と称えたりする(みたいですね)。異性愛であることをわざわざカミングアウトしないんだから、同性愛も宣言する必要などない、…などと知ったようなことを言うと、ウルサガタのフェミニストやゲイ・パレード実行委員会から「判っていない!」と糾弾されかねないのだから、ことほど左様に同性愛をテーマとすることは難しい(と思いこまされていますね)。うーん、同性愛の錦の御旗を掲げただけで、この小説は満足してしまっていないかな。語ることに勇気が要るテーマを真正面から扱ったからといって、それだけで小説が成り立つわけじゃないでしょ。主人公と若い小説家はどちらも作者の分身で、登場人物ふたりの会話のシーンは作者の脳内妄想が心地好いセリフを羅列しているだけ。会話じゃなくてひとりごと。これが延々続くだけ。