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幸福な遊戯
幸福な遊戯
【角川文庫】
角田光代
定価 500円(税込)
2003/11
ISBN-4043726015

  岩井 麻衣子
  評価:B
   ここちよい共同生活に訪れる変化を受け入れたくない主人公。母の入院による張りつめた生活があまりにもすさまじく、死によって急に訪れた自由を受け入れられなかった主人公。郷里の母に現実とは違う嘘の自分を演じてみせる主人公。3編とも変化の中で居場所をつかめなかった者たちばかりである。絶妙のバランスで居心地のいい生活を送っているとき、変化は腹立たしく、とり残された自分はどうしたらいいのかとまどう。どうやって生きていくのか、理想に押しつぶされそうになり、結局は裸の自分を見つめ直しまた居場所を探して生きていく。そんな一連の物語が本書には描かれていると感じた。うだうだと泣き言を繰り返し、破滅的な主人公たちが鬱陶しく、しっかりしろよと言いたくなるが、居場所を見極めないと不安がつのる姿が自分のことにも思え、なんだか親近感もわいてくる一冊であった。

  竹本 紗梨
  評価:C
   角田光代のデビュー作。表題作のストーリーは、男ふたりと女ひとりの共同生活で唯一のルールは「同居人同士の不純異性行為禁止」。こういうよくある設定は苦手…。主人公は割り切って気楽に過ごしていても、その生活のアンバランスさに足をすくわれてひとりで立てなくなる、立つ方法を忘れてしまう。評価Cは物語の出来よりも単純な好き嫌いです。収録作「銭湯」も中途半端な自分の人生を「こんなもん」と思いたくない、それだけのために平凡ではない人生を頭の中で描いて生きている女の子の話。「可能性なんて、救われない人間が考えた幻想」との事で、話にもキャラクターにも嫌になるほどリアリティがあるだけに本でまで読みたくない、というのが本音です。

  平野 敬三
  評価:A
   表題作を読み終えて。この作品に『幸福な遊戯』というタイトルを付けた著者のセンスに寒気がした。もう少し若い時の自分だったら腹が立っているだろうか、と考えながら、ああでもこの物語の残酷さには気が付かないだろうなとも思った。目には決して見えない、それでいながら当事者には見えているつもりの、人間関係(主人公の言うところの“この家の姿なき形”)というもののかけがえのなさと儚さをこれほど鮮明に描いた青春小説も少ないだろう。いや、これを青春小説と読んで良いのか。苦すぎないか。これでデビュー作とは怖ろしい女です(失礼)。ストーリーはシンプルだが、私と貴方の関係は私が勝手に抱いていた妄想だったの?という類の単純な話ではない。この女、バカだなあと思いながら、おい、なんだか胸が苦しいぞ、ということにふと気付く。ダメ男小説があるならダメ女小説があってもいい。当然のこと、こういう女性、嫌いじゃない、というのが“正しいダメ女”の条件である。

  藤川 佳子
  評価:B
   「幸福な遊戯」「無愁天使」「銭湯」の3編の小説が収録されています。「幸福な遊戯」は、感情をどこに着地させればよいのか戸惑ってしまうお話といいましょうか…。女の子ひとりと男の子ふたりの、不思議な共同生活。単行本の発行は1991年、ちょうどドリカムが流行ってた頃で、女1:男2の3人組にみんな憧れたものです(たぶん)。でもね、このスリーショットって、なかなかうまくいかないんですよね。ドリカムもふたりになっちゃったし…。逆ドリカムの方がうまくいくのかしら…。逆ドリカムってのは、もう死語ですかね。

  藤本 有紀
  評価:C
   本書の3つの短編の主人公は偽る女である。かつ不幸。
 母の死後、狂ったように散財する家族。テレクラで小遣いを稼ぎながらひとり狂騒状態を続けようとする女が主人公の「無愁天使」が、私はベストだと思う。家中がものだらけになればなるほど母を死なせてしまったこと強く意識させられるという構成だから、もののディテールは重要だと思うのだが、著者はこれを軽視していると感じた。高校生の「私」と妹が輸入システムキッチンを買いに品川のショールームに行ったり、食器をサザビーで揃えようなどと話していることは異常なことだ。それならば、食器もキッチンも手の届きそうもないものであってこそ異常さが際立つというもの。品川にどんなショールームがあるか知らないが、品川と聞けば「京浜工業地帯じゃん、おしゃれじゃないじゃん」と思うし、ヘレンドならともかくサザビーの食器を揃えることはできないことではない。つまらない小間物の描写は生き生きしているのに、物欲を刺激するようなものを描けていないアンバランスがこの小説のクオリティを下げているとさえ感じた。
 ところで、表紙の写真はどこなのだろう。私は六本木通り渋谷〜西麻布、または甲州街道初台〜永福のあたりだと思うが。

  和田 啓
  評価:AA
   そういえば、ぼくの大学生活もこんなだった気がする。なにものでもなく、未来は自分の掌にあり、世の中に無縁で、不安はあるにせよひとつのきっかけで乗り越えられた、二度と戻らない時代。
 男2女1の若者三人の共同生活。端から見ると確かに妙な気はする。けれどもいいのだ。主人公がいう「姿のない形」があり、「奇妙な共同意識」と「バランス感覚の共有」が保たれさえいれば。寄る辺があるようでない、自立と持たれ合いの曖昧さの心地よさ。三人ばらばらの生活でも、誰かが必ず片手は「それ」をつかんでいる意識は三人とも持っていた。あの日、までは。この世のすべては川の流れのようにたえず変わっていく。
 真っ昼間、柔らかい日差しの中カーテンも窓も開けっ放しで目を閉じる瞬間の描写がある。風のそよぎを感じながら。気が付くとまた夕暮れで、それから商店街を散歩したものだ。気が付けば朝方まで話していて藍色を落しきってない空をふと感じた。
 角田光代はそうやって詩情豊かに遠い子供の頃のあの日までを描いている。