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偶然の祝福
偶然の祝福
【角川文庫】
小川洋子
定価 500円(税込)
2003/12
ISBN-4043410050

  岩井 麻衣子
  評価:B
   7つの短編がおさめられた連作小説。ある小説家の女性が遭遇するちょっとした偶然。それが不幸な彼女の生活を支える小さな幸せになっている。始まりは突然失踪してしまった伯母が登場する「失踪者の王国」から。彼女は孤独に耐えられない時、伯母が行ってしまった王国への道が自分にも開けないかと願う。ぎりぎりのラインでひっそりと生きる彼女は、自分の上を通りすぎる偶然に助けられている。ラスト「蘇生」では偶然を消化し、自ら必然とすることで息子と犬との生活を維持していこうとする。全体を通してとても静かな物語である。物音をたてないように、息さえもひそめなければいけないような雰囲気が漂う。そのときの精神状態によって、読むたびに印象の変わる一冊だろう。絶好調のときはその辛気臭さに耐えられなくなりそうだし、下降気味のときには一緒に落ちて行きそうである。安定した状態の時に、本書の魅力を十分理解してから、何度でも読みたい一冊である。

  斉藤 明暢
  評価:C
   いくら水を飲んでも渇きがいやされないような夢から覚めると、いったい自分はここで何をやっているのか、と呆然としてしまうことがある。そんなことを思い出した。
主人公の一人称で語られる物語の世界は、彼女の心を映すスクリーンというか触媒みたいなものだ。彼女の犬や子供、様々な人との出会いを描いてはいるが、そのどれもが彼女自身の心を動かすきっかけでしかないのではないか、とさえ思えてしまう。
「あなたがこの世に存在することではなく、私があなたに出会ったということに意味がある」と言ったら言い過ぎだろうか。そして最後のエピソード「蘇生」では、喪失と再生が描かれているが、実は自分自身の捨てた何かとの再結合ではないかとも感じられる。
「失ったものを取り戻してどこにも隙間が無くなったとき、初めて本来の自分に戻れる」
そんな思いで突き進んだ先には、なにが待っているんだろう。

  竹本 紗梨
  評価:A
   真っ暗な洞窟、追い詰められた時計工場…この作者は心の中にあるこんな場所で小説を書いているのだろうか?小説に作者の全てを重ね合わせても意味がないのは分かっているけれど、そんな場所でもずっとこの人には小説を書きつづけて欲しい。失くしたものを淡々と書くというよりは、辛うじてその世界を形にできたのが文章だったというような淡い触感。この人の文章をそっと味わうのは密かな楽しみのひとつです。デビュー作から、その小説の世界は変わっていないけれど、この作者だけがその儚げな世界を形にできる。そして、その小説を心待ちにしています。

  平野 敬三
  評価:AA
   すてきな小説に出会うと、その著者の書いた本をどんどん読みたくなる。しかし、最初に読んだ小説があまりにすてきすぎると、他の著作を読むのが恐くなる。そんな経験はないだろうか。小川洋子の『博士の愛した数式』がいかに素晴らしい小説か。それはその後、僕が一冊も彼女の小説を読んでいないという事実でしか語れないが、それで十分だという気もする。あの至福の時間はもう体験できないという諦めを生んでしまうほどすてきな小説だということだ。それが。再び体験してしまった。小川洋子の作品で。何冊も小川作品を読んできた方には「いまさら何を言っているのだ」と呆れられそうな話だが、なにしろ本書で2冊目なので仕方がない。なんで今まで誰も薦めてくれなかったんだろうと腹が立ってきたが、あ、そうか、川上弘美も誰も教えてくれなかったもんなと思い直した。本当に好きなものは誰にも教えたくないもの。静かにさみしくひそかに哀しい話が好きな人にそっと手にとってもらいたい傑作。

  藤川 佳子
  評価:A
   この方には、本当によく泣かされています。
「泣ける」とか「感動する」という前評判には断固立ち向かっていくのが常ですが、小川作品だけはダメです。まるでパブロフの犬のように、著書を手にしただけでもう涙腺が緩んでしまいます。
ページを開いてまず、著者紹介の写真で心が揺らぎます。白黒写真の淡いかんじと絶妙な微笑かげんに思わずホロリです。
こんなところで泣いてはいけないと、気を取り直して物語へ。
決して幸福とは言えない状況の私。そんな私を取り巻く人々は、生後間もない私の息子であり、愛犬のアポロであり、私の死んでしまった弟だと言い張る変なじいさんであったりと、弱く、頼りない存在ばかり。世間はいつだって私たちを冷たく見放し、揺るがない現実としてそそり立っています。けれども、私がいよいよ途方に暮れてしまうと、必ず救いの手が差し伸べられます。どんな絶望の中にも救いがある。そんなことをこの物語は教えてくれているような気がします。読後、安心感に包まれるっていうのがいいですね。

  藤本 有紀
  評価:AA
   小説家が天賦の才能に恵まれ、凡人とは違ったセンスを持ち合せているというだけで小説を書くことができるというならば、優れた小説の登場を私たちは飽きるほど長く待たなくてはならないのではないかと思う。
本書の一編「時計工場」の、「長編小説を書いている時、私はなぜか自分が時計工場にいるような錯覚に陥る。」という一文に触れ、私はなるほどと深く肯いた。「深い森の奥の殺風景な工場で職人がささいな狂いもない時計を作らなければいけない」ように、小説家は作品を完成させるための完全な語いを探し、比ゆを生み出し、物語を構成しているのだろうと思う。このような職人的正確さと、バレエダンサーがつま先から血を流しながら踊り続けるかのようなストイックさを小川洋子や村上春樹といった小説家から私は感じる。「腰掛けている丸椅子が半分腐りかけ、ネジで刺した傷が膿んで」こようとも完成された小説が、たったの500円で読めることに感じ入る。

  和田 啓
  評価:C
   子どものときに不気味だったものを鮮明に思い出させてくれる。失踪者。他人でありながら家に居るお手伝いさん。兄弟。犬……。そこにあったものが消える事象は現実感に乏しく、かなりの恐怖感を招く。
 いっときの村上春樹の小説を読んでいるような錯覚に陥った。喪失感が少女性を纏った文体から漂っている。しかしながら「喪失」とペアの感がある「再生」というキーワードが見事なまでに出てこない。これが小川洋子ワールドなのか。
 才能だけで書いている気がしたのは私だけだろうか。