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真昼の花

真昼の花
【新潮文庫】
角田 光代
定価 420円(税込)
2004/8
ISBN-4101058229


  岩井 麻衣子
  評価:B
   東南アジアをふらふらとあてもなく何をするでもなく旅している私を描いた「真昼の花」とマンションの一室で一人で電話番をし、家族との間にも壁を作って生活している私を描いた「地上八階の海」の2編が収録される。どちらの主人公も一人になりたいけれども、真に一人という状況を許容できず、何かをしたいけれども、何をしたらいいのか思いつかないという自分をもてあましている。全ての人が、目指す何かを抱き、目標に向かってがつがつ進みながら生きていくわけではない。何を求めるかさえもわからず、自分の生活や今後に不安と孤独を抱いて生きていくこともあるし、非日常がふと道端に転がっていないかと考えていることもある。しかし、実際はそんなことを悶々と考えて生きていくのはとても辛く、現実を見て自分の中で目標を定め生きていこうとする。角田光代の主人公はむかしのどうしようもない辛い気持ちを思い出させるのだ。すでに現実の自分に目を向けはじめたとき、この物語は忘れたいことを思い出させる。

  斉藤 明暢
  評価:C
   特に大した目的もなく何かを始めて、いつまでそれを続けるのか、続けないのか、そもそもどっちにしたいのかも分からない。今やっている事を断ち切って、新しく何かを始めたり、どこかに戻ったりするよりも、今のイヤなことを我慢したり無視したりして過ごしたほうが楽、という感覚というのは、わからなくもない。とはいえ、そういう姿にちょっとイライラするのは、歳をとったということなんだろうか。
 なにも始まらない、なにも終わらない。そのかわり、何かを迫られることがない状況を突破するには、意志と決断と、ちょっとしたきっかけが必要だ。そのきっかけに出会う直前までの話、ということなのかもしれない。

  竹本 紗梨
  評価:B+
   主人公の「私」は流されるまま貧乏旅行を続けて、本当にお金がなくなり、物ごいまがいのバックパッカーになってしまう。静かに何かを失っていく日々。何かを失うことってそんなに本人にとってはそんなに大したことではないんだろう。私が角田作品を読むたびに、何となく戸惑うような気持ちになってしまうのはこのことなんだと思う。主人公が、あまりにも無防備で大切なもの、自分さえもを失いつつ、目の前のものだけを弱く抱きしめていて、こちらまで不安になってしまうのだ。

  平野 敬三
  評価:A
   生きていること、そして生きていくことの途方のなさを、上手に人に話すことができない。だから、角田光代の小説を読むと少し安心する。僕が語ることのできなかった「あの感じ」がいつもそこにはあるからだ。無意味に焦ってみたり、急に不安にかられてみたり、意図に反してドギマギしたり、日常生活というやつはなんだかひどく落ち着かない。それなのに、いかにも手慣れたものとして「毎日」を扱ってしまう。そんな自分にふと気がついた時、本書を手にとってみてほしい。
「あんた、何やってんの?」。そんなオオバくんの問いが怖い。怖いからこそ、必死に何かをやっているふりをしてしまう。何かを目指しているふりをしてしまう。しかし実のところ、何やっているんだろう……という呟きから何かが始まっていくのではないか。生きていくことに途方に暮れてしまっている誰かの背中をそっと押してくれる、そんな力を持った小説である。

  藤本 有紀
  評価:B
   冴えない女を書かせたら角田をおいて他にない、といっても過言ではない。所持金を使い果たしても旅先に居座る女の話「真昼の花」において、「私は本当に困ってみたかっただけなのだ」と主人公は認める。バックパッカーとは多かれ少なかれこの女と同じなのではないだろうか。邦貨にして10円を出し惜しみながら貧乏旅行を続けたところで、旅行者であるということ自体がぜいたくであるといわれれば認めざるを得ないはずだ。この10円の節約に清貧さは感じられず、煎じ詰めていうなら、欧米人の旅行スタイルを模倣したところで日本人にそれは定着しない(背嚢旅行者なんていわないわけだし)ということ。特に日本円と通貨の差が大きい東南アジアを旅するバックパッカーにはこの矛盾がつきまとう。主人公の告白はそれをうまく表現している。
 読者としてフラストレーションのたまる部分もある。例えば「格闘技めいたセックス」という表現。書くならちゃんと描写してほしい。ラストはあまりに『シェルタリング・スカイ』的である。

  和田 啓
  評価:C
   定職に就かず、あてどなく東南アジアを旅する24歳の女性が主人公。旅行期限は未定でお金はなんとかなるという、バックパッカーするには理想的な境遇。表向きは行方不明の兄を見つける旅ではあるが、長い旅の途中から切実性なんてものはなくなり、糸の切れた凧状態に。旅の目的は遠くに流れ、滞在地にいる意味を失い、悪い逗留いわば「沈没」してしまうのだ。作者は感受性豊かなあの角田光代である。どこかで一気に場面が反転する、閃くような一言半句を心待ちに読み進めたのだが、ついぞ現れなかった。沼に浸かったままのような読後感。沈没。
 もう一篇、「地上八階の海」。兄夫婦が暮らす郊外のマンションに移り住んだ母を訪ねる娘の物語。都市の希薄な人間関係、現代というある種空疎な時代を生きる空気のようなものは伝わってはきたが、救いがないと浮かばれないぞとわたしは思った。