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もう切るわ

もう切るわ
【光文社文庫】
井上荒野
定価 500円(税込)
2004/10
ISBN-4334737692

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  岩井 麻衣子
  評価:A
    もうすぐ死んでいく男の妻と愛人。二人の視線で男が死んでいくまでが描かれる。前半は妻と愛人の判別がつきにくく混乱したり、文章がぷつりぷつりと短く切れるので、読みづらいのではあるが、それに慣れてくるとググっと物語に引き込まれていく。白でもなく黒でもないグレーな感情をもつ登場人物たち全てに感情移入してしまうのだ。たった一人を愛するなんて、世界は単純ではないのだろう。たくさんの人を愛するがゆえに結局は孤独なんだ、でもそれが人間なんだという感じがした。現実に自分にこんな生活が降りかかったらイヤだし、わめき散らしていろんなことを台無しにしてしまうだろうけど、本書の登場人物のように、絶対的な孤独には到底耐えられそうにない。いろんな人に共感を覚えつつも、自分とは別世界の話にしておきたい切ない愛の物語である。

  斉藤 明暢
  評価:B
   主な登場人物は一人の男の妻と恋人で、物語は妻と恋人それぞれの一人称で交互に語られる。あとがきを先に読めば良かったのだが、二人の語り口にそれほど大きな違いがなく、呼び方も人によって変化するので「登場人物は何人なのか?」「今語っているのはどの人?」といった所でひどく混乱してしまった。まんまと作者の意図にはまったわけだ。
 渦中の存在であるはずの男は、占い師に転職したり不治の病に冒されたりして、かなり波乱の人生を生きているはずなのだが、なぜか存在が希薄に感じられる。これはその他大勢の登場人物と同様、二人の女性の感情表現の触媒といった役割を担っているせいなのだろう。
 それで最後は結局どうなったの?どういうことだったの?と聞きたくなってしまうが、それを問うのは、やはり余計なことなのだろう。

  竹本 紗梨
  評価:B
   癌になった男。その妻と恋人。どちらが男を本当に愛していたのか?死にゆく男とその妻、そして愛人との静かな日常が少し薄暗く、だけども絶望とは違う感情で進んでいく。淡々とした生活の中で、感情が高ぶったり、愛情を痛いくらい欲しがったりする。それぞれの女の心の呟きが描かれている。男は死んでしまうが、果たして誰を愛していたのか、誰が男を一番愛していたのか…。答えが出ないことが普通なのだろう。その当たり前の空気感を、幸せなことばかりではない恋愛を、ささいなことに残る思い出を、細やかに書き出している。全体に漂う曇り空のような雰囲気は好きではないが、嫌いにもなれない。

  平野 敬三
  評価:A
   普通に考えれば、決して「幸せなお話」ではない。妻も愛人も、ふらふら彷徨ったままにラストを迎える本書は、解説で角田光代氏が書いているとおり、ハッピーエンドとは言い難い。でも、本書を読むことで人は、誰かを愛することの痛みを思い出すとともに、いまいちど誰かを愛すること喜びを感じてみようという心持ちになるはずだ。ふたりの女性は、「純」でも「まっすぐ」でもないが、だからこそ一途な恋では描けない心の揺れが読者の心を大いに乱すのだろう。そして最後まで彼女たちの想いを受け止めない(ように描かれる)木暮歳の存在がいい。川上弘美のニシノユキヒコもそうだが、こういう「浮世離れなキャラクター」は最後まで自分のキャラを通し抜くべきであるということを再確認させてくれる。変に女たちに歩み寄ってはいけないのである。どの場面、どの台詞を読み返してもぐぐっと胸を締めつけられる恋愛小説の傑作だ。

  藤本 有紀
  評価:A-
   「もう切るよ」でも「もう切るから」でもなく、『もう切るわ』。どんな女性がだれに対してこういったのか、その背景にある物語を想像させ、期待させる素敵なタイトル。〜するわ、といういい方は、大人の女にこそ似つかわしい。というより、大人でなければ使えない。例えば、30代の母が父に向かってやや苛立ちまじりに「先に出るわ」といっているような状況や、外国映画の女優のせりふの吹き替えなどが思い浮かぶ。女性を大いに感じさせながら必要以上にぬくもりを込めないで、男に何かを伝えるのにちょうどいい表現だと思う。
ひとりの男が限られた余命であることを知る。その男の妻と恋人による語りが、時系列を解体したひとりの女の過去と現在(つまり、男からの電話を指折り数えて待っていた過去と夫と別れようと思っている現在)であるかのように読者は錯覚する。この惑わしのストーリーテリングが本書の妙味であろう。印象的な「鍵穴」の章。筋書き、心象描写、夫婦の会話の質のすべてがいいのだが、「お寿司ができ上がったけど、食べられる?」という平凡なワンフレーズがまた素晴らしい。

  和田 啓
  評価:B-
   大人の恋愛小説だ。サラリと読ませるが硬くて冷たい氷に皮膚を撫でられているようなゾクッゾクッとした感覚が残る。最近あまり見かけなくなったが連城三起彦さんの作風を思い出していた。
 人を好きだという感覚を持続するのは難しい。「恋愛は結ばれるまでが一番美しい」と書いたのは確か北上次郎さんだったと記憶している。一緒にいる時間が長いほど相手を知るほどに恋愛は微妙に友情に転化していくものだ。結婚生活のコツは相手を嫌いにならないことだと離婚経験者の友人が語っていたが、それほどまでに男と女の愛情は変化していくものだし、好きだ惚れただけでは成り立たない深い河が男と女の間には流れている。一組の夫婦がいる。愛情という意味では冷めてはいるがお互い嫌いではない。ふたりとも大人でとても魅力的な人物だ。
 夫は妻を愛していたのか。妻は夫を愛していたのか。答えは風に吹かれている。