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泳ぐのに、安全でも適切でもありません

泳ぐのに、安全でも適切でもありません
【集英社文庫】
江國香織
定価 480円(税込)
2005/2
ISBN-4087477851

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  浅井 博美
  評価:A
   江國香織のフィルターを通ると、大したことない食べ物でもとっておきの大ごちそうになってしまう。
 祖母が危篤との知らせに動揺しつつもまずお腹に入れるハンバーガー、20歳も年下の男の子とブランケットにくるまって食べるぬるいオレンジ、犬小屋から出てこない夫をどうやって犬小屋から出すかの相談をしつつ食べるシュークリーム、そしてくき茶、世界中みんなが敵だと信じている少女の前に現れた、彼女にとって特別な存在になる男がハーレーにまたがって食べるホットドッグ。当たり前のものが当たり前に見えなくなる。そんな江國香織の魔法には何回もかけられてきた。本書の中でも特に好きなお話「うんとお腹をすかせてきてね」にうっとりするフレーズがある。「あたしたちは毎晩一緒にごはんを食べる。─だからあたしは思うのだけれど、あたし達の身体はもうかなりおなじものでできているはずだ。─その考えは、あたしを誇らしい気持ちでみたす。」食いしん坊は美しくないと子どもの頃からずっと信じてきたが、そんな思い込みも江國香織の魔法の前では、なんの効力も持たないようだ。

  北嶋 美由紀
  評価:B
   タイトルがまずおもしろい。実際に作者がアメリカで見た立て札の言葉だそうだが、ハッキリ泳ぐなとは言わず、何があっても知らないよ、と親切なんだか無責任なんだかよくわからない、もしかするととても意味の深い言葉なのかもしれない。
 十編の短編集だが、ほとんどが大きなトラブルや特別な出来事をかかえた話ではなく、幸せなのか、そうでもないのか、よくわからない、淡々とすぎてゆく、当事者にとっては当然の日常の一コマをそこだけ切り取ったような内容で、中途半端なようで余韻が残るチョンとした終わり方をしている。アクセクした日々でもなし、緻密な人生設計もない「その時」を生きている女性達だ。特に、表題作と「犬小屋」がよかった。表題作の母娘は身近かに感じられ、一見冷たいようで実は愛情ある母娘三代の関係はベタベタ騒ぎまくるよりずっと心地よい。「犬小屋」は女性達の奇妙な関係もおもしろかったが、犬小屋で寝る夫の気持ちがわかるような気がして、思わず笑ってしまった。

  久保田 泉
  評価:B
   江國香織の作り出す世界は、明らかに誰にも真似出来ない麻薬的な魅力があり、はまる人はそこにどっぷりはまり、抜け出られなくなるのだろう。愛にだけはためらわない、10人の女たちの物語を集めた、短編集からなる一冊という。帯びの惹句に、“愛し過ぎた女たち”ともある。しかし、私にはむしろ〈愛の限界を知っている女たち〉に思えてしまう。今こう書いて、いや、どちらも同義語なのかもしれない、、とふと感じた。江國香織の作品を読むといつも強いイメージが湧く。美しい夕暮れの茜雲、ふわふわキラキラ浮かぶしゃぼん玉、ぴかぴかに磨き上げられた大理石の床…どれも実際に存在するものだけど、直接手では触れようとはしないもの。傷口から血は出ていないのに、どこかが痛くて仕方ない。江國香織は、良くも悪くも彼女固有のイメージが強すぎるのだと思う。必ず載る、アンニュイな著者近影は、そのイメージに拍車をかける。私のように、やや引いてしまう人間には彼女を語る資格はないのかなあ、と潔くあきらめます〜。ごめんなさい!

  林 あゆ美
  評価:C
   江國作品のタイトルは詩のようなものが多い、と思う。タイトルを見ただけで、なんとなく物語の雰囲気も透けてみえる。言葉職人の作家が吟味した美しい言葉たちは、ピンセットで注意深く取り出され、作品のタイトルに貼り付けられる。この本は、採集し整理された昆虫の標本箱を見るようだ。
 10の短編それぞれが、的確な言葉で日常の中の濃い一瞬として物語に仕立て上げられている。平凡だったり非凡だったりのこまごまが物語をいう枠で鑑賞する。「私たちみんなの人生に、立てておいてほしい看板ではないか」と登場人物にいわしめたのが、この表題作のタイトル。アメリカの田舎町を旅した時に見つけた川べりの看板だそうだ。安全でも適切でもないけれど、泳ぐことはできる場所。注意をはらっていないと、おぼれてしまう事柄がそこかしこにあるのだと――なんとなく大人になるとわかっている事をキャッチコピー風に表現されたことに、すっきりするかしないかは、あたりまえだが、読み手次第。

  手島 洋
  評価:B
   目次を見たとき、まず作品の短さに驚いた。長くても30ページ程度。10篇の短い話のいずれもラヴストーリーだ。女性の一人称で、毎日のように会っている恋人、かつて付き合っていた愛人、分かれてしまった恋人など、さまざまな相手のことが語られる。特徴的なのはその文章。散文でありながら非常に詩的だ。「青年なんだか中年なんだかわからない感じの人」、「顔の造作もなんとなく大雑把だった」、「無職で酒飲みで散らかし屋で甘ったれの男」といった表現が登場する。具体的に説明はしていないが、想像力をかきたてる表現だ。小説の形を借りた詩なんだ、と思い、だからこんなに作品が短いのかと勝手に納得した。ラヴストーリーとはいっても、犬小屋に入りたがる男や、毛糸の水着を着て泳いだ姉妹、なんていうよく考えたら酷くシュールな話も多いのだが、違和感なく読ませてしまう。さすがというべきところなのだろうが、余りにもひっかかりがなく読めてしまうところに、やや不満に感じなくもなかった。せっかく海に出たなら、もっと「安全でも適切でも」ないところまで泳いでほしい、冒険してほしい、と思ってしまうのは贅沢なのだろうか。

  山田 絵理
  評価:A
   江國香織の文章は不思議だ。雑然とした部屋の様子などの描写があっても、生活臭をまったく感じない。平易で頼りない感じの短い文を紡いで、モノクロ映画のように美しく、心にしみいる切ない思いを描き出す。
 恋愛は時と共に変化していく。始まったときは幸福で満たされていても、時間と共に二人の思いは移ろってゆく。そうしたら愛しい人への想いはどう変わるのだろうか。収められている10の短編は、そうした時間を経た二人の関係について、「あたし」や「わたし」といった一人称で語られる。女達の詳しい人物描写は無いが、みな型にはまらない生き方をし、自分の思いにまっすぐである。話の背景はあっさりと描かれていて、余計に彼女らの切ない思いが際立つ。
 個人的に好きなのは「十日間の死」という話だ。「恋人だけがこの世でただ一人の仲間」と思っていた17歳の女の子が、突然相手に捨てられてしまう。その幸福にきらめく日々と絶望のどん底の日々における、彼女の心の叫びに痛いほど共感した。

  吉田 崇
  評価:C
   こういう作品を好きだと言ってしまうと、いい年こいた男としてはちょっとばかし気味が悪いのではないかと思ってしまうのだが、しょうがないやね、面白いんだから。結構好きです。
 十編からなる短編集ですが、全てが年齢の多寡はあれ女性の一人称で書かれています。その上テーマが恋愛だったりすると、感情移入して読んでいくのは気恥ずかしい場合の方が多いのですが、この作品集では書き手と語り手の間がしっかりと確保されていて、親父年齢の僕でも照れることなく物語に没頭する事が出来ます。共感がある訳ではないのですが、とにかくこの著者のシーンの切り取り方の上手さを感じました。人生の中のある一瞬だけで十分に永遠と等価になる、そんな一瞬をトリミングする。これは技術ではなく、センスですね、非常にカッコいい。
 ただ、登場する女性達が必要としている男性がどれをとってもヤな感じで、この評価。もうちっと、ビシッとした男を登場させればと思いつつ、あ、そうなるとこの物語世界にはならないわなと、納得してペンを置く。