Blue Spirit Blues (1)

 大学三年の頃、ジャズが好きになった。ジャズがなんなのかもよくわからなかったが 、都会的で洗練された大人の雰囲気に酔ってしまった。「ジャズ」と小さく口に出してみるだけで、おしゃれな人になったような気がしたし、ここではないどこか素敵なところへ一足飛びに行けるような気もした。


 もともと音楽は好きだったので、名演といわれる音源を集めて聴いてみたり本を読んでみたりした。スタンダードなものを多く聴いた。一つの曲を誰がどんな風に演奏しているのか聴き比べてみたりするのが好きだった。ジャズは自由に思えた。
 一番最初に集めたのはオスカー・ピーターソンだった。島根県民会館でのコンサートを見られたのは夢のようだった。手が4本くらいあるのじゃないかと思うような華麗な演奏だった。それからビル・エバンス、ウイントン・ケリー、レッド・ガーランド、ハービー・ハンコック、キース・ジャレット、チック・コリア、秋吉敏子などなど、とにかくかたっぱしから聴いてみた。

 CDが登場していたが、高価だったので(1枚3800円もした)、学生の身ではなかなか買えず、よくレンタル屋さんで借りた。CD化されていないものはもちろんレコードも借りた。子供の頃から8トラのカセットやレコード、レーザーディスクといろいろ見てきたが、CDの手軽さは、これから音楽ソフトとして主流になっていくのだろうなという予感をさせた。いつか、大人になったらCDをたくさん買って棚にずらっと並べてみたいものだと思った。

 そのうちにジャズピアノを自分でも弾いてみたくなる。ジャズって楽譜どおりでなくても自分の好きなように弾いていいのだなどということを聞くにつけ読むにつけ、激しく心を惹かれた。
 わたしの手は小さい。オクターヴ、例えばドからドまでをきちんと押さえることもできない。クラシックピアノは早々に諦めねばならなかったことを思うと、自由なジャズの演奏であればわたしにも弾けるやり方があるということは夢のようだった。


 しかし、である。日本のチベットだなんていわれるような田舎に生まれて、父のつまびく古賀メロディとジュークボックスから流れる昭和歌謡を子守唄に聴いて育ったわたしである。どうやって弾けばいいのかさっぱりわからん。ああ、アメリカ人に生まれたかった。バスルームでシャワーを浴びながら「君住む街で」なんかを鼻歌に歌って、アメリカ映画に出てくるような粋でおしゃれなジョークをがんがんとばしたい。そんなことばかり考えていた。
 ともかく、アメリカ人になるのは将来の夢として、まず東京へは行こう。草木もなびく東京へ行けば、ジャズを習える学校もあろう。そうしてジャズのライブハウス、よくは知らないが、新宿とか、渋谷とかで働きながら勉強しよう。単細胞が服を着て歩いていたような当時のわたしの頭の中には「ジャズ」と「東京」しかなかった。


 大学4年になって、まわりが就職活動を始めてもわたしには関係なかった。教育学部にいたからきちんと規定どおりの単位を取って卒業すれば教員免許はついてくる。私の場合は、幼稚園教諭と小学校教諭の免許が取れた。けれど、教育実習に行ってみて、自分は教師には向いてないと思ってしまった。子供たちが全幅の信頼を持ってまっすぐ向けて来るあのきらきらした目を受け止める自信がない。あんな責任の重い仕事はわたしには無理だ。
 だからといって普通の会社に入ってOLになるというのはもっと実感がなかった。家業のせいもあるけれど、サラリーマンの家の暮らしを想像することができなかった。就職活動は全くせず、教員採用試験も受けなかった。

「東京へ行ってジャズピアニストになります」と夢見るように言うわたしに、進路指導の教官もあきれ顔で「まあがんばりなさい」と言うしかなかった。何か、根拠のない自信のようなものが背中を押していた。
 男女雇用機会均等法元年の世代である。女子も男子と同じように給料がもらえて出世もできる!と太い眉で鼻息荒く就職試験を受け続ける友達を見ても焦りはなかった。みんな、がんばるなあと思うだけだった。
 まあわたしはジャズピアニストになることですしと、まだなれたわけでもないのにのんきにアルバイトばかりしていた。ウエイトレスやスナックのカウンター嬢や、時には我流のピアノを弾いたりパーティーで歌を歌うこともあった。


 ただし問題は財政面だった。うちは経済的に余裕がないので東京へ行く資金を親に出してもらうのはだめだろうなと思った。ああ、お金持ちの家に生まれたかった。
 大学を卒業してすぐドラマの主人公のように何も持たずに夜汽車に乗って東京へということはできなかった。あまりにリスクが大きすぎる。きっと生活のため働くことに追われて勉強どころではなくなってしまうだろう。ああなってこうなってと、どんなに都合良く想像してもうまく行きそうにない。急ぐことはないのだから、なにがしかの資金をきちんと貯めてから東京へがつんと出て行こうと決めた。非現実的な夢に向かって、わりと現実的だった。


 父は水商売をしていて、その上好き勝手に生きているくせに、ミュージシャンになるというわたしに腹を立てて、ずいぶん長い間口をきいてくれなかった。大学4年の後半には父の店を手伝ったりピアノを弾いたりしたが、その店の経営は思わしくなかった。さらに保証人でかぶった多額の借金もあることから、当時の父はうつ気味で暗かった。

 父も母も同じくらい好きだったが、子どもの頃からずっと感じていた二人の間に流れる氷のような空気の中で、もうこれ以上息ができないと思った。どちらの味方をするのにも疲れた。暗い父もやつれた母も見ていられなかった。何よりもう父のそばが嫌だった。どこへでもいいから遠くへ逃げ出したかった。泣き虫だった妹は高校卒業後わたしより先に就職して立派に働いている。もうわたしが彼女を守ってやらなくても大丈夫。

 大学を卒業するとすぐに、わたしは好きな人の住む鳥取のアパートに移り住んで一緒に暮らしはじめた。彼はわたしにジャズを教えてくれた人だった。唐突に鳥取へ行くことを家族に告げて、ひっこしの準備を始めた。

 ひっこしの日、母は一緒に鳥取まで来て手伝ってくれた。あんなにひっこしが好きなのに、父はおもしろくなかったのだろう、今回ばかりは知らん顔をしていた。
 一日掃除をしたり荷物を開くのを手伝ってくれた母を送って行った夕暮れ時の鳥取駅の改札口で、彼女の小さな後ろ姿が涙でにじんだ。

 数日後、父から小さな荷物が届く。「これを使ってください」というメモと一緒にシュアーのマイクが1本入っていた。マイクの持ち手には「mariko」と名前が入れてあった。
 家族を捨てしまったのだと考えると胸がしくしく痛んだ。けれど、いつまでもめそめそしてはいられない。買ったばかりのバド・パウエルのCDを聴きながら、東京はどうした、ジャズはどうなったと自分に喝を入れる。


 仕事を探さなければならない。ピアノを弾く仕事はないかしらと、電話帳でホテルを調べてあたってみる。大学時代のバイトの経験から、宴会場やピアノラウンジに仕事があるかもしれないと思ったのだ。初めての就職活動である。全部断られた。次にナイトクラブの欄を見て、上から順に電話をかけていく。
「あの~、ピアノ弾きいりませんか」。何件目かで、やっと反応があった。

 翌日、楽譜を何枚か持って面接を受けに行った。大きなクラブだった。ホステスさんは20人くらいいるらしい。店内は広く、入り口近くにグランドピアノがでん、とあり、入った瞬間に高級そうな雰囲気が漂う。大きさの違うボックス席が十くらいあっただろうか。
 開店直前、照明はまだ営業用に落とされていない、明るいままの店の中でママ、40代と思われるぽっちゃりしたママが 「じゃ、何か弾いてみて」と言ったので、ポロポロと弾いた。歌も歌ったほうが受けるかしらと、ついでに歌ってみた。「テネシーワルツ」とか「枯葉」とか。ママが「まあ、あなた英語の歌も歌えるの、すごいわね」と言って、わたしは翌週から働くことになった。
 週6日、8時半、9時半、10時半からの各30分の演奏でギャランティはひと晩1万円。雇用機会均等法の同級生の平均月収が15万円くらいだった。

 酒場のピアノ弾きは「先生」と呼ばれる。なぜだか知らない。何を教えるわけでもないのに。時代劇に出てくる用心棒みたいだ。「先生、お願いします」なんてね。学校の先生にはなれなかったが、ふるさとから遠く離れた夜の町で、わたしは「マリコ先生」になった。

Song of 「Blue Spirit Blues(1)」

「ブルー・スピリット・ブルース~朝日楼~500Miles」

2013.8.18(日)高円寺JIROKICHI LIVE!~ブルースとロックを歌う日~ days1より