第4回

 こうしてオレは、「強力なコネこそないものの、これだけの実績(?)を積んだ即戦力になる学生はそうはいないだろうから、必ず自分の実力を買ってくれるところがあるはずだ」、今考えると恥ずかしさの極みだが、不遜といえばあまりに不遜、根拠があるようでないような理屈で自分自身を買いかぶりまくったまま、9月の就活解禁を迎えた。
 解禁とはいえ、あくまで会社訪問。必要書類を送付するのでも、面接を受けるのでもない。出版社側も会社訪問を随時受け付けているところもあったがそれは少数派で、特に大手は、説明会解禁の10月が本番という構えだった。OB訪問もできることはできたが、大学のサークル活動は実質皆無で訪問するOBもなく、既に業界に片足を突っ込んでいる身としては、あえて聞くことも特になかった。9月は考えていたよりもずっと平穏に過ぎてしまった気がする。

 そんな頃、沢野画伯から貴重なアドバイスを賜った記憶がある。「本の雑誌」の事務所のテーブルでトグロを巻いていたら、沢野画伯が、
「大橋クンも就職活動か。それだったら大手に入れるいい方法を教えてあげようか」
と話しかけてきた。
 ほんまかいな!? となぜか関西弁で思いながら、
「それはゼヒ!!」
と即答するオレ。
「いいか。面接でどんな仕事がしたいかと聞かれたら、こう答えるんだ」
「どう答えるんです?」
「辞書の校正がしたいっていうんだ。辞書の校正なんてやりたがるヤツはまずいないから、絶対に採用されるよ、うん」
「辞書の校正ですか...(うーむ)」
 
 笑いながら冗談めかしていってくれたのだったらよかった。しかし、画伯の目はマジ。オレは、どう答えていいか困ってしまったのだと思うが、その先の会話は憶えていない。そして、折角のアドバイスを実際に活用する勇気は、オレにはなかった。
 
 10月に入って、説明会が始まるとのんびりしていられた9月とは激変して忙しくなった。名目上は説明会の解禁なのだが、実際に行ってみると試験や面接だったりして、しかもそれが、最終面接までいってしまう会社まであった。
 当然のことながらスケジュールがカチあってしまう。A社の一次面接とB社の三次面接がぶつかったら、三次面接を取りたくなるのが人情。だが、非情にも三次面接はペケ、同時に一次面接の会社もその先はない。ただでさえ多くはない手駒はみるみるうちに半減してしまった。書類選考や一次面接で落ちてしまえばカチあうことはないのだが、中途半端に通るだけで内定には至らない。
「どうせ落とすんだったら、最初に落としてくれよ」
 チンチロリンの2の目地獄のような状況に泣きが入ってきた。これは、オレに限らず優秀な一握りを除いたマスコミ志望の学生が、経験していたと思う。
 
 朝日新聞の求人欄でサン出版の新卒募集広告を見つけたのが、泣きが入り始めた10月中旬。「本の雑誌」は「JUNE」と交換広告をしていたので、もちろん社名は知っていたし、アダルト系の出版社であることも知っていた。念のためと思って会社を訪問するとまだ築1年に満たない5階建ての白亜の自社ビル。アダルトというアングラなイメージから、築20年くらいの貸しビルのワンフロアかツーフロアと勝手に想像していたオレは、かなり痛烈なカウンターパンチを受けた気分だった。
 アダルト系に偏見がなかったといえばウソになるが、自由なメディアとしての魅力を感じていたのは事実。当時の総合誌的なアダルト誌は、グラビアと読み物が半々で、広告らしい広告もなく、それが故にクライアントタブーは皆無。もちろん出版界の常識としてのタブーはあるものの、「エロいページで読者を満足させれば、他の読み物は編集者の自由にできる」といわれていた。青臭いのは重々承知で書くと、元々、編集志望ではなく記者志望だったので、その"自由"には憧れさえ抱いていた。
 
 そちらの業界に出入りしている助っ人の先輩もいて、いろいろと教えてくれる。
「B社では、編集者は誌上でチ○ポ出して一人前」
 それはちょっと...だが、
「3~4年もがんばれば、編集長になれる」
 なんてあま~い話もあった。事の真偽はともかく、若くして自分の雑誌を持つことができるのは、編集者としての一つの夢であることは間違いない。しかもその上、仕事として堂々と女の裸を見ることができる(正直いってこれもかなりの魅力、男ですから)。プラス、白亜の自社ビルショックもあって、オレは何のためらいもなくサン出版を志望リストに付け加えた。
 
 そして試験解禁の11月に入り、最終面接前の2次面接で内定をくれたのが、そのサン出版だった。就活のストレスのせいか日頃の行いがよっぽど悪かったのかどうかは分からないが、各社が面接を始める直前に風邪をひき、超ガラガラ声しか出なくなってしまったオレは、とにかく、一つ内定をもらったら終わりと決めていた。試験から数えると2週間で内定、3か月に渡る就活もいざ、終わってみるとなんともあっけない。
 
 年末・年始は、卒論だの、ブラジルへの卒業旅行の準備だので、ワサワサとやっていると瞬く間に過ぎた。
 
 '86年3月24日午前11時前、リオ・デ・ジャネイロから帰ってひと月近く経っても、まだ治らない時差ボケのため眠たい目をして、着慣れぬスーツに季節はずれの陽に焼けた身を包んだオレは、入社の手続きをするために白亜のビルの玄関をくぐろうとしていた。