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7月11日(土) 炎のサッカー日誌

 最近は、スタジアムに入る前にひとり芝生に寝転がって持参した缶チューハイを飲んでいる。

 そこでいろんなことを考える。主にこれから始まる試合のことなのだが、それ以外でも家族のこと、仕事のこと、思いつくままに考える。答えを求めるというよりは、自分の気持ちを確かめるようなもんだ。営業という仕事を長くしているとつい「自分の気持ち」を忘れてしまうことがある。だから僕は埼玉スタジアムの池のほとりの芝生の上で、自分を取り戻す作業をしているのかもしれない。ある程度整理ができたところで、仲間が待つスタジアムに向かう。

★   ★   ★

 試合開始までまだ少し時間があった。私はとっくのとうに還暦を過ぎた両親とともにゴール裏の席に座っていたが、父親は食べ終えた弁当の空き箱を持って、席を立った。すると母親が身を寄せるようにして話しかけてきた。

「この間、お父さんから電話あったでしょう?」

 そういえば数日前の仕事中、本(『SF本の雑誌』)が売れて良かったなと電話があったのだ。

「お父さん、すぐ電話切ったでしょう。あれさ、うれしくて泣きそうだったんだって。お父さんもあんたのこと心配してるのよ」

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 確かあれは小学6年生の夏休みだった。
 私はやることがなく家でぼんやりしていたら、独立したばかりの父親から「暇なら働きに来い」と言われ、その翌日から電車とバスに乗り継いで父親の会社に向かった。そこは自動車修理工場の上の、一日中金属を叩く音が聞こえるうるさい場所だった。窓が小さく、日も当たらなければ、とても狭かった。社長の机もなく、みんな作業机で仕事をしていた。

 私もそのなかに加わり、ボール盤でプラスチックに穴をあける作業をした。あけてもあけても終わらなかった。でもその仕事は営業でもある父親が必死になって取ってきた仕事だ。私は夢中になって穴をあけていた。

 そういえば父親はほとんど会社にいなかった。私と一緒に出社するとすぐに中古のワゴン車に乗って出かけて行き、夕方戻ってくるのだった。何か注文が取れたときは嬉しそうに社員に話しかけ、思ったようにいかなかったときは、すぐに組み付け作業の仲間に加わった。ある日、外に出て行く父親が私に声をかけた。

「いくぞ」

 出来上がった製品を車に積んで、父親は車を走らせた。ラジオからはAM放送が流れていたが、私は始めて見る東京の下町の景色に見とれていた。狭い敷地に多くの家が建っている。太い道から細い道へ、そしてまた太い道を通って、父親の目指す「とりひきさき」と呼ばれる工場に向かった。

 工場に着くと父親は慣れた様子で建物に入って行った。すぐ向こうの会社の人を連れてきて、私を紹介した。小さな声で「こんにちは」というのが精一杯だったが、その知らないおじさんは嬉しそうに父親を見つめた。

「よっちゃん、会社作ってすぐ、跡取りかよ。羨ましいなあ」

 私はあの小さな会社のどこが羨ましいんだと思ったが、何よりも父親が「よっちゃん」と呼ばれていることに驚いた。父親とそのおじさんの仕事を越えた親密な関係が現れているように思えたし、私の知らない父親の姿がそこにあった。私が荷台に積まれた段ボール箱を下ろす姿をふたりは腕を組みながら見ていた。

 また車に乗ると父親は話しかけてきた。
「腹減っただろう?」

 言われてみれば昼をとうに過ぎていた。
「ラーメン食べよう。すぐそこに美味い店があるから。でもな、絶対大盛りを頼むなよ。そのお店は普通でも多くて食べきれないくらいの量が入っているから。たまに知らないやつが大盛り頼んで焦ってるんだよ」

 私は父親に言われたとおり普通のラーメンを頼んだが、周りの作業着姿の人たちはそれに大盛りのご飯を添えていた。みんな首にタオルを巻いて、油まみれの手であった。

 数えてみると、あの頃の父親は今の私と同じ歳くらいだ。

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 去年ならばずるずるとDFラインを下げていたであろうが、サンフレッチェ広島の佐藤寿人のゆさぶりにも負けず、闘莉王と阿部は必死になってラインを上げていた。その結果、68分に高原からエジミウソンへ絶妙なパスが通り、同点となる。

 そして後半80分過ぎ。私の目の前で、18歳の原口元気が、サンフレッチェ広島のディフェンダーと競り合っていた。全身をディフェンダーにぶつけ、ボールをキープする姿を見ていたら、私の目から涙があふれて来た。

 今、彼は、必死にプロサッカー選手の扉をこじ開けようとしている。いやこじ開けた扉から、飛び出そうとしているのだ。

 その必死に戦った原口が倒されると主審の岡田正義は笛を吹いた。そのフリーキックからエジミウソンのゴールが決まり、浦和レッズは勝利した。

 私は父親と肩を組み、エジミウソンのゴールを祝った。

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