7月4日(金)児玉隆也・桑原甲子雄『一銭五厘たちの横丁』
朝、京浜東北線に揺られ、鶯谷を通過したところで読み終えた児玉隆也・桑原甲子雄『一銭五厘たちの横丁』(ちくま文庫)は、すごいルポルタージュだった。
帯に小さな文字で「傑作ルポ」と記されているけれど、そんなささやかなレベルの「傑作」ではない。帯にでかでかと「日本を代表するルポルタージュの傑作」と書くべき作品だ。
昭和18年、太平洋戦争の最中、出征している兵隊、すなわち父や子や兄弟に向けて、日本にいる家族の写真を送るべく台東区の下町に暮らす99の家族が写真を撮った。
30年後、その写真のネガを手にした著者は、偶然写り込んだ暖簾の屋号や用水桶の屋号といった人物の背景を頼りに、町を歩き、一軒一軒扉をノックをし、写真に写った氏名不詳の人たちのその後を追う。
元気な人もいる。引っ越してしまった人もいる。戦争から帰ってきた人もいる。しかし、この本一冊でいったい何人の人が死んでるんだ!?と驚くほど、たくさんの人が亡くなっている。
これは小説ではないのだ。実際に人が死んでいるのだ。
それでも多くの人が淡々と戦争のことを話している。空襲でまつ毛もヒゲも背中も焦がしたことや戦地で飢えをしのぐために軍靴の底皮をスープにしたりネズミを食べたこともなぜか淡々と話す。
最近、私は母親の介護しながら母の半生を聞き出している。昭和15年の生まれだから一番大きな出来事は戦争だったはずで、戦時中の話も当然出てくる。しかし、なぜかとても淡々としているのだ。
母親は東京で生まれ東京で育ったから空襲に遭えば、疎開もしている。長兄は戦争にも行っており、相当の苦労をしていると思うのだけれど、お腹が減ったこと以外はほとんど感情もこめず淡々と話すのだった。
著者自身も淡々と話すことを「〈なんだろうなんだろう〉と首をかしげ続け」「この露地の人びとは、とかくレポーターを喜ばせがちな〝 〟や「 」でくくれる、気のきた言葉を持っていない」という。
私もずっとなぜなんだろうと思いながら母親の話を聞いていたのだが、この本を読んでその理由がわかった。わかった瞬間、涙がどっとあふれてきた。
1975年に晶文社から刊行され(津野海太郎さんの編集だ)日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、2000年には岩波現代文庫となり、そして2025年の今年、ちくま文庫から再刊されたこんな大名著を今まで未読だったのが恥ずかしい。しかし恥を忍んで言ってしまおう。
『一銭五厘たちの横丁』は、ルポルタージュの王様だ。