1月15日(水)
ペンを持つ手が震えていた。
指先に力をいれて、縦棒を引く。次は横。そして縦、縦。
紙の上で「山」という字が滲んでいる。
緊張を解きほぐすために、いったん指先の力を抜き、首を回す。昼前の郵便局にはほとんど人はおらず、制服を来た郵便局員があくびを噛み殺していた。しかし私は暇なわけではなかった。振り込みを終えたら、12月にオープンした日本最大のショッピングモールにある書店さんへ直納に向かわなければならなかった。一刻も早く手続きを終えるべく、もう一度ペン先に集中し、「山」の下に「風」という字を書いた。その後には「ファンクラブ」と記入するよう、ホームページからプリントアウトした用紙には書かれていた。
そうなのだ。私は今、嵐のファンクラブに入会しようとしているのだ。
それが中1の娘が希望した誕生日プレゼントだった。娘はいつの間にかジャニーズに洗脳されていた。
そのことに気づいたのは年末の長い休みのことだった。
ハードディスクレコーダーに録り貯めていたイギリスのサッカー「プレミアリーグ」を見ようとすると、そこには「嵐にしやがれ」や「VS嵐」など嵐と名のつく番組がずらりと並んでいた。
いつの間にかレコーダーが壊れ、勝手にキーワード録画してしまったのかと削除しようとすると娘が血相を変えて怒鳴りつけてきたのだ。
「消したら殺すよ!」
父親に向かって何を物騒なことを言っているのかと思ったが、娘は乱暴にリモコンを奪うと録画ファイルにロックをし出した。
嵐といえばジャニーズの人気グループだ。それくらいは私も知っている。でも、だから何だというのだ。嵐の番組を録画することに何の意味があるのだ。そう思いながら迎えた大晦日の晩、娘はテレビの前に陣取ると一瞬たりとも紅白歌合戦から視線をそらさなかった。司会をしている嵐がテレビ画面に映ると今まで聞いたことのないような声をあげた。歌を歌えば一緒に口ずさんでいた。娘のそんな姿を見るのはじめてだった。
もしや娘は嵐が好きなのだろうか。意を決して訊ねてみると、冬でもサッカーで真っ黒に日焼した顔をぽっと赤らめた。それは明らかに恋をしている人間の姿だった。
いかんではないか。浦和に生まれたからには浦和レッズに夢中にならなければならない。一生の愛を浦和レッズに捧げなければならないのだ。たとえもしイケメンが好きというなら阿部勇樹や鈴木啓太がいるではないか。歌って躍れるかは知らないけれどサッカーは嵐より上手いはずだ。
それなのに浦和レッズに染まる前にジャニーズに染まるとはどういうことだ。
「マツジュンが好きなのか?」
唯一知っているメンバーの名前を挙げて訊ねると、「知らないくせに馴れ馴れしく呼ばないでよ」と叱られてしまった。
「あたし、大きくなったらパパと結婚する」と言っていた娘はどこへ行ってしまったのだろうか。
正月明けにツタヤに行った娘は嵐のCDを大量にレンタルしてくると、去年の誕生日にプレゼントしたiPodに入れた。そして今年の誕生日プレゼントは嵐のファンクラブに入れて欲しいと言った。
浦和レッズのシーズンチケットでなく、嵐のファンクラブ......。
そんな子に育てたつもりはなかったが、娘の誕生日は来月に迫っていた。娘の願いを叶えるのが父親の本望だ。本当は娘は嵐のコンサートに行きたいらしく、「パパさ、出版社に勤めているなら嵐のチケット手に入らないの?」と言ってきたりもした。残念ながら私の手に入るチケットは国際ブックフェアくらいだった。噂によると嵐のコンサートのチケットは、浦和レッズが出場する天皇杯やナビスコカップの決勝よりも手に入りにくいらしい。しかもそれもファンクラブ優先ですべて捌けてしまうそうだ。ならばやはりファンクラブに入会しなければならない。
私は娘の願いを叶えるために仕事を抜け出し手続きをしているのだが、すでに2枚の振り込み用紙を書き損じてしまっていた。1枚目は入会者に自分の名前を書き、2枚目は好きなメンバーの名前を間違えてしまった。
15分以上かかり、やっと書き終えた振り込み用紙とお金を持って、郵便局の窓口に渡す。受け取った局員の女性がふっと笑った気がした。もしかして私が嵐のファンクラブに入ると勘違いされたのではなかろうか。娘の名前は漢字にすると男性名に読めなくはない。
ち、違うんです、お姉さん。それは私じゃなくて、娘なんです。私はれっきとした浦和レッズのサポーターなんです! 娘だっていつかレッズサポになるはずなんです!!
手数料120円を払い、手続きを終える。
しばらくすると会員証が届くらしい。もしコンサートのチケットが購入できたら誰が連れていくんだろうか。