9月10日(木)
- 『ベストセラーなんかこわくない』
- 入江 敦彦
- 本の雑誌社
- 1,944円(税込)
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雨がやんでいるうちに出社しようといつもより家を早く出、自転車にまたがり駅に着くと、そこは埼玉スタジアムで開門を待ち受けるサポータのごとく人が渦を巻きカオスになっていた。
一見して理由がわかる。
武蔵野線である。
雨はやんでいるのだけれど、武蔵野線という災害は油断した頃にやってくる。
駅のスピーカーから漏れ聞こえてくる説明に耳を傾けると「線路に穴が空いたため運転を見合わせております」と言っている。
これまで暴風雨雪猪倒木水没や「なんだかちょっと風が吹いているような気がするので」とか「なんだかパラパラと雨が降っているような気がするので」とか「なんだか今夜雪が降りそうなので」と気軽に運転を見合わせてきた武蔵野線である。穴が空いたらそう簡単に復旧するわけがなく、その証拠にすでに隣駅へ向うバスは100メートルを越す長蛇の列、タクシーはその姿もないのにやはり100メートルを越す長蛇の列、そこかしこで誰かを呼び出し車で送ってもらおうとする武蔵野線難民でごった返しているのだ。誰も武蔵野線が運転再開するなんてこれっぽっちも信じていないのがよくわかる。
いつもならこのまま家に帰り、二度寝を決め込むのだけれど、本日、私は新刊見本出しという大役を控えているのであった。どれくらい大役かというと今日新刊見本を届けなければ会社が倒産してしまうかもしれないくらいの大役なのだ。
まさか出版不況でも活字離れでもなく、武蔵野線のせいで会社が倒産する日が来ようとは想像もしなかった。
いや倒産させてはいけない。
「本の雑誌」をこの世からなくしてはいけないのだ。
そのためにはどうにか午前中に新刊見本を取次店さんに届けなければならない。
しかし武蔵野線はもちろんバスに乗れる見込みもなく、唯一の頼みの綱である妻も本日はパート仕事のためすでに家を出ているのだ。
どうしたらいいのか...。
解決策はひとつしかなかった。武蔵野線ではない、電車が動いている駅に自力で辿り着くしかない。隣駅の浦和駅か浦和美園駅はどちらも約5キロの距離だ。走ればたった30分ではないか。スーツを着て、傘をさして、走ったことはないけれど、でも日頃走っている距離に比べたら屁でもない。というわけで、カオスの駅を抜け出し、走りはじめる。
走りながら考える。
私は、息子を、絶対、JR東日本に、就職させるのだ。
ハッ、ハッ、ハッ。
そうして、武蔵野線の、地下鉄化に、尽力を、注がすのだ。
ハッ、ハッ、ハッ。
2キロほど走ったところで、路線バスが前からやってくる。
ここを通るのはカオスである「東浦和駅」行きのバス、のはずだ。それでも顔を上げ、行き先表示を確かめる。するとそこにはなんと「浦和駅東口」の文字が点灯しているではないか。こんなバス路線があったのか! 走るのはやぶさかではないが、さすがに傘は邪魔だ。しかもちょっと恥ずかしい。
ちょうど目の前がバスの停留所で、私はまるでそこがゴールであったかのごとく、バスに飛び乗ったのである。
乗ってはみたものの道はたいそう混んでいる。どう見繕っても午前中に新刊見本出しできる時間に到着しそうにない。
やはり本の雑誌社は、武蔵野線のせいで倒産してしまうのだろうか。
走ったせいの汗ではなく、あぶら汗を垂らしながらバスに揺られていると、ふと閃くものがあった。そういえば私は本の雑誌社のひとり営業マンであるけれど、もうひとり名刺に「営業部」と刷っている人間がいたではないか。
彼女はほとんど会社から一歩も外に出ない箱入りおばさん......、もとい箱入り娘であるけれど、「本の雑誌」を愛する気持ちは誰よりも強い。何せ落ちても落ちても三度も入社面接にやってき、さすがに呆れた目黒さんが採用したほどのなのだ。
問題は酒を飲まねば人と話せぬ人見知り及びアル中のケがあることだが、「本の雑誌」存続の危機に直面した今、そんなことを言っている場合ではない。
というわけで、バスのなかから浜田宛にメールを送る。
「すまん、武蔵野線が運転見合わせになっていまい、新刊見本出しできないので、代わりに行ってください」
そして長々と取次店さんの場所や見本出しのルール、事細かに話すべきセリフを書いた。
しばらくすると浜田からメールが返ってくる。
「無理無理無理無理です!!!! 私にはとてもできません!!! 絶対無理です」
バスは相変わらずまったく動かない。これならばバスに乗らず走ったほうが早かっただろう。しかしこの満員のお客さんを押し分け、今さら降りることもできない。
「これは『本の雑誌』存続の危機なのです。あなたの頑張りが『本の雑誌』を救うのです。『本の雑誌』を誰よりも愛するあなたにしかできないことなのです。そして見本出し終了後には、飲み放題の打ち上げをしても構いません」
今度は即返事が届いた。
「頑張ります!!!」
走れ浜田! 浜田は泥酔した。必ず、かの「本の雑誌」の存続の危機を除かなければならぬと決意した。浜田には取次がわからぬ。浜田は、営業事務員である。電話を取り、伝票と格闘して来た。けれども倒産に対しては、人一倍に敏感であった。
どうにかこうにかバスが浦和駅に着いた頃、浜田からメールが届いた。
「たくさん汗をかきましたが、見本出し終了しました。今から飲みます!」
浜田の奮闘により、本の雑誌社倒産の危機は逃れられたようだった。