第142回:川上未映子さん

作家の読書道 第142回:川上未映子さん

詩人として、小説家として活動の場を広げる川上未映子さん。はじめて小説を発表してからまだ6年しか経っていないのに、今年は短篇集『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞も受賞。さまざまな表現方法で日常とその変容を描き続けるその才能は、どのようにして育まれていったのか。読書を通して感じたこと、大事な本たちについて語ってくださいました。

その3「19歳で出会った作品たち」 (3/5)

たけくらべ 現代語訳・樋口一葉 (河出文庫)
『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉 (河出文庫)』
河出書房新社
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「魂」に対する態度
『「魂」に対する態度』
永井 均
勁草書房
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痴人の愛 (新潮文庫)
『痴人の愛 (新潮文庫)』
谷崎 潤一郎
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午後四時の男
『午後四時の男』
アメリー ノートン
文藝春秋
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ムーン・パレス (新潮文庫)
『ムーン・パレス (新潮文庫)』
ポール・オースター
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――その頃に読んだもので印象に残っている本は。

川上:19歳の時に松浦理英子さんによる樋口一葉『たけくらべ』の現代語訳を読んだことは本当に大事な出来事です。河出書房から出ている本ですね。10代の半ばに原文を読もうとした時は読めなかったんです。でも松浦さんが現代語訳してくれたことで『たけくらべ』に再会できました。私は思い出信奉者で懐古趣味があって、過去と現在の境目が見えないようなものに快感と快楽をおぼえるんですが、そういうものと『たけくらべ』の世界がすごく似ていたんです。カメラが一定の場所にないところも面白かったですね。時空の行き来や場所の移動の感じが、私の頭の中の運動とすごく似ていた。美登利の側から書かれていると思ったら急に美登利を見ている側にカメラが移ったりするんです。三人称というほど区画整理がされていなくて、それは目から飲み込むような読書体験でした。物語も人間はひとところにいられないんだと思わせるもの悲しさがあって。また松浦理英子さんの訳分が素晴らしくて、句読点の位置も原文のままで変えていないんです。そこがすごくありがたかった。小説をまがりなりにも書いてみようと思ったのは、こういう喜びがあると教えてもらったからです。読者に終わらずに一歩踏み込めたのは、理英子さんのおかげですね。理英子さんと対談する機会があって、それをお伝えできて時は本当に嬉しかった。だって、お風呂に入って、お湯が冷たくなるまで読んでいましたから、いつもいつも。だから単行本はボロボロなんです。

――19歳が読書のターニングポイントなんでしょうか。

川上:19歳で出会った本はたくさんありますね。安部公房も読んだし、永井均さんも大きかった。永井さんは『魂に対する態度』を読んで、彼の言っている<私>っていうもののことが、ものすごくわかると思いました。自分がこどもの頃からとらわれてきたことについて、どうやって世界と対峙するかということについてがそこに書かれてありました。小林秀雄も19歳の時に読みましたね。マッチョなところが好きではないし大げさなところがあるなと思うし批評的に正しいかどうかもわからないけれども、フレーズが効いている時があるんですよね。中原中也のことも、小林秀雄の目を通してその最期を目撃したようなそんな気持ちになります。そういう文章のちからがあるんですよね。前の行で言っていることと後の行で言っていることが違ったりもして論理性がないところも多いんだけれども。かたや永井均さんがロジックで世界を見る面白さと可能性を教えてくれたとすれば、かたや小林秀雄は酩酊した視力の凄みと面白さというか(笑)。そういえばサリンジャーもその頃から読みはじめましたね。カート・ヴォネガットもこのあたりからかな。

――そこから別の読書にもつながっていったのですか。

川上:昔の作家の本を一冊読むと、解説にいろんな名前が出てきたりしてつながっていきましたね。樋口一葉を読んで当時は女性が書くのが珍しかったんだと知って伊藤野枝について書かれたものを読んでみたり、辻潤のことを知ったり。三島由紀夫もこの時期にまとめて読みました。あまり著者名を気にせず、その時々の感覚で選んでいたと思います。映画を観る時、その時封切されたものからタイトルだけで選んで観たりしますが、あれと同じ感覚で、タイトルだけ見て買うことも多かったです。だから書店が作家との大事な出会いの場所でした。谷崎潤一郎の偉大さを知らずに『痴人の愛』を読んだり、『午後四時の男』というタイトルだけで選んだり、ポール・オースターと知らずに『ムーン・パレス』を読んだり。幸田文や武田百合子といった随筆のメジャーどころもこの時期からかな。あとは、現代小説の作家で外せないのが多和田葉子さん。私が多和田さんを知ったのは遅いんです。2005年にはじめて詩を『ユリイカ』に書いた時、当時は編集委員で現在は編集長の山本充さんに「多和田葉子さん好きでしょう?」と言われたんです。その時はまだ読んだことがなかった。「すごく好きだと思うよ」と言われて読んでみたらすごく好きで、そこから手に入るものは全部すぐ読みました。『聖女伝説』が手に入らなくて図書館で読んで、あまりに素晴らしくて、大好きになった。松浦さんの『たけくらべ』現代語訳と多和田葉子さんは、10代の終わりから20代のはじめで出会った現代文学のふたつのインパクトですね。

――多和田さんの作品の魅力は。

川上:驚嘆ですよね。「今からおかしな話をしますよ」という感じではないのに、いつも見ている風景が何か違って見えてくる。変容の外に出てしまうんです。多和田さんの『聖女伝説』で言うと、女の子が追い詰められて学校のトイレで泣くんですが、落ちる涙がパン粉になって、便器のなかでそれが雲になっていく。それが本当のことのように思えちゃうんです。虚構であることが明言されている世界に入り込むファンタジーをわたしはあまり求めていないんですが、多和田さんの作品を読んでいると、そこに書かれている変容がじっさいにあり得るものとして侵食してくる。私たちは明日死んでしまうかもしれない今を生きていて、得体のしれないものといつでも接続してるんだということがみるみる立ち上がってくる。私の好きな小説ってみんなそうですね。涙がパン粉になること自体を不思議で滑稽なこととして書いていない。パン粉が何かを象徴しているなんてこともない。想像ですらないんですよね。その意味でリアリズムなんだと思います。

――そう聞くとマジック・リアリズムのようですね。

川上:多和田さんは、そのエッセンスを一行で鮮やかにかたちにしてしまうんですよね。クイック・マジック・リアリズムみたいなものかな(笑)。村上春樹さんも、寓話性の高いものもあるけれど、『象の消滅』とか『眠り』とか『人喰い猫』とかの短編にもそういう作用がありますよね。「不思議の枠」をまずぽんと置くのではなくて、シームレスな変容の感じが好きですね。

――一松浦理英子さんも、小説もお読みになっていますよね。

川上:19歳の時に『葬儀の日』を読んで打ちのめされました。これを松浦さんは19歳の時に書いているんですよね。「泣き屋」と「笑い屋」が出てきて、自分たちの関係を説明する場面があるんですが、川についての話になるんです。川の右岸と左岸のようなものだと言ったら「二つの岸はお互いを欲しているのか」と聞かれ、両岸がないと川にならない、お互いに手を取り合ったら川がなくなると答え、それで「川とは何です?」と聞かれて「私たちもそれを知りたいのです」って。それを読んだ時、私の中にも川というものが流れたんです。対談集の『六つの星星』に収めた松浦さんとの対談でもそのことを話しているんですけれども。永井均さんを読んだ時のように、何かを教えてくれる作品でした。

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