第32回

「FIインタビュー」にサンミュージックの酒井法子('71年2月14日生まれ、福岡県出身)を引っ張り出せたのは、9月号の「小泉優のカレッジGals大活劇」で「VHD MOMOCO CLUB」(VHDは、ビデオに代わる次世代の高画質の映像記録媒体(といっても録画は不可)として開発され、ビデオのVHS vs. ベータと同様にLDとの激烈なシェア争いをしていた。結局、軍配はLDに上がることになるのだが、そのLDもDVDの出現で消えゆく運命にある)の一日密着取材をしていたおかげといっていい。正面切ってアポを入れたところで、おそらくは門前払いだったろうが、搦め手で日本ビクターのビデオソフト事業部に電話を入れたところ、快い返事がもらえた。日本ビクターは、VHDの開発元でもあったので、LDとの戦いには本腰を上げていたため、"世界初のVHDデビューのアイドル"酒井法子の取材依頼に関してかなり鷹揚に対応していたものと思われる。

 ここで「MOMOCO CLUB」についても、説明しておこう。「MOMOCO CLUB」は、学研の発行していた雑誌「Momoco」のギャルコレ(自薦他薦、事務所所属非所属を問わず、編集部が選んだコを掲載するページ)コーナーで、そこからアイドルデビューを果たすコなどもいて、いうなれば"雑誌版おニャン子クラブ"的存在だった。ただ、おニャン子のようにフジテレビが囲い込み&バックアップしていたようなフォローは甘く、展開はレコード会社や所属事務所に委ねられていて、他社の雑誌への露出規制は全くなかった(一応、「初水着は学研さんでやってから」のような義理を重んじる事務所もあるにはあったが)。事務所などにとっては、おニャン子クラブは狭き門の上、縛りがきついが、「MOMOCO CLUB」は広き門で縛りもなく、とりあえず雑誌露出ができるので重宝な存在だったに違いない。また、その縛りのゆるさから、「投稿写真」のような雑誌にとってもありがたい存在だった。

 そんな様々な事情が絡み合って、酒井法子の取材に漕ぎつけたのだが、その取材の立ち合いが凄かった。通常のインタビュー取材であれば、立ち会いはマネージャー一人かそれにレコード会社の宣伝部の人が加わって計二人程度が普通なのだが、この時は専属マネージャーのM氏にプロモート事業部から部長(現社長、当時は"ジュニア"と呼ばれていた)の相沢正久氏、日本ビクターからもビデオ事業部から二名の計四名。思わぬ重鎮の参加に(入社半年足らずのペイペイ一人じゃ、バランスが取れない)とばかりに編集長を内線で呼び出して(取材場所は、会社のスタジオと喫茶室なのが幸いした)挨拶してもらったくらいだ(笑)。両社とも「ザ・シュガー」の方とは付き合いがあるはずなので、そんなに警戒しなくてもとは思ったが、やはり名だたるアイドルパンチラ雑誌の取材だから、変な写真でも撮られるのではないかと大陣営で取材に臨むことになったのだろう。その代わりといっては何だが、通常ならすぐ撮影ができるように自前の服を着てきてもらうのだが、この時はわざわざ2パターンも事務所側で用意してくれたり、ラジオ番組の収録風景の取材もさせてくれたりと至れり尽くせりだった。