第77回

  新年早々の編集部には、アンケートハガキがいつもの倍以上届けられた。通常ならA2の大きな封筒によくて半分程度なのに、最終的にはその封筒2つがパンパンになるほどの応募があった。彼らの目当ては投稿写真特製・姫乃樹リカテレホンカード(以下テレカ)だった。
 '86年の4月に斉藤由貴の「卒業」のテレカがオークションで30万円の高値で落札されたことが報道されるや、それまでそんなにいなかったコレクターが急増し、折からのアイドルブームと結びついて、販促用やプレゼント用のテレカ人気はすごいことになっていたのだ。情報欄担当のオレは、「ザ・シュガー」にいたFクンが、他社のテレカ専門誌に移ったのを知り、'87年10月号から毎月注目のアイドルテレカを1、2枚紹介してもらっていた。
「投稿写真」でも石田ひかりの特製テレカを'87年1月号でプレゼントしたのだが、これほどの反響はなかった(もちろん、通常よりはたくさんの応募が来たが)。おそらくその頃は、まだテレカブームがアイドルマニアまで十分浸透していなかったのかもしれない。また、2月号は表紙、グラビアと姫乃樹リカプッシュの号だったので、彼女のファンがたくさん「投稿写真」を買ってくれた上に特製テレカのプレゼントとなったのも応募が殺到した一因だろう。また、Fクンのアドバイスでテレカマニアが欲しがるように、石田ひかりの時はホワイト加刷(真っ白なテレカに印刷して作るテレカ)だったのをオリジナルに変え、衣装は制服、雑誌のロゴを入れたりとマニアが欲しがる(イコール、プレミアムが付きやすい)ように作ったのが功を奏したともいえた。
 このテレカプレゼントが好評だったのをどこで聞きつけたのか、Fクン経由でブローカーまがいなテレカ業者との繋がりができてしまった。芸能事務所の人やレコード会社の人などから、個人的にもらったテレカを交換してくれないか? なんてのはかわいいもので、プレゼント用のテレカを何枚か都合つけてくれないか? とそんなことしたらダメじゃん的なことを平気で頼んでくる輩までいた。
 そして、雑誌のプレゼント用のテレカをロハで自分達で作らせてくれないか? という話が出た。テレカプレゼントは、人気はあるものの、一回当たり100枚作るとしても、7~8万かかる。目玉のカメラやレンズを除けば、サイン色紙やノベルティなどでそんなに予算は使っていない。創刊○周年記念とかのアニバーサリーでも絡まなければ、毎号のようにプレゼントすることなんてできない。それをタダで作ってくれるなんて、なんともありがたいお話だ。
 だが、おいしい話には当然、ウラがある。彼らの思惑は分かっていた。テレカはこちらの希望枚数渡してくれるが、それ以外にも数百枚作ってしまって、プレゼントが送付された後、売り払ったり、テレカ交換会に持ち込んでネタとして使ったりするのだ。雑誌の格やアイドルの人気にもよるが、懸賞に当たった人にしか手に入らないテレカは、最低でも3000円の値がつく。300枚作って、100枚を渡し、残りの200枚の内の半分の100枚もさばければ、製作費を全部出してもお釣りの来る計算だ。誰に迷惑がかかるわけではないが、アイドルテレカマニアを裏切るようで、オレはあまり乗り気ではなかったが、編集長にこの話をした。
「いい話じゃないか、次からそれで作ろう」
 モロ手を挙げて、賛成だった。雑誌製作費の削減は編集長の責務だから、それにつながるおいしい話と思ったのだろう。叛意を促そうとカラクリについても説明したのだが、いいじゃないか、の一言で相手にされなかった。
(多分、3月で異動になるだろうから、手を汚すのは5月号の一度だけであとは後任か)
 そう自分に納得させて、編集長を説得するのをあきらめた。
 
 4月号の編集作業が終わり、5月号の作業に入った頃、人事異動の発表があった。
(どの雑誌に移るんだろ?)
 オレはもう異動されるものと決めて、異動の表に目を走らせた。ところが、オレの名は、投稿写真編集部のままだ。
(えっ、3年目もココ!?)
 それどころか、これまで一緒にやってきた南武志が抜け、代わりに「Don't」編集部から後輩(と言っても一年下しかいない)の三橋祐輔が入ることになり、バイトの川崎が辞めて、新人バイトの奥山文康に。さらにずっと編集アシスタントと写真整理をしていた学生バイトの大門太郎が卒業して、大学の後輩の名村茂が引き継ぐことになった。簡単に言うと、編集長とオレ以外総とっかえだ。
(こりゃあ、まいったなあ)
 '86年7月にもこれに近い人事はあったが、今回は先輩も配属されずスタッフ最年長だ。後任に任せるつもりでいたテレカの件も自分が手を汚し続けることになるかと思うと、ズンズンと気分が重たくなっていった。