「賢夫人」という生き方 前編

「家庭教育 賢夫人」

(『教育小説 未来之軍人〈みらいのもののふ〉』所収)はるの舎〈や〉主人 1895(明治28)年

 さて、夫人と名のつく小説「夫人小説」を時代順に並べる、などと意気込んではみたもののどの作品を端緒とするかという問題がすでに悩ましい。
 国会図書館NDL-OPACで検索すると所蔵作品中最古のものは「はるの舎主人」の「家庭教育 賢夫人」と出る(評伝や翻訳作品は除く)。はるの舎主人、つまり坪内逍遥である。
 逍遥といえば小説家であり翻訳家であり劇作家であり、東京専門学校(現・早稲田大学)で教鞭をとった教育者でもある。日本初の小説論といわれる『小説神髄』とその実作『当世書生気質』が書かれたのは本作の10年前、そして6年前に発表した『細君』を最後に小説については断筆を決心している。では、なにゆえその後に小説を、しかも専門ではない「家庭教育」や「賢夫人」についてものしたのか、という謎はしばし置いておいてまずは内容をざっと紹介しておこう。

「土一升金一升」と謳われる一等地日本橋の大邸宅に住む、財産家の夫とその妻で子爵の出である春子(この人が「賢夫人」)、娘の文子の三人家族がこの物語の主役である。四つの小話で構成され、第一回で4歳だった文子が第四回では小学生に成長し、それぞれの年頃に向けた母の教育が示される。例えば4歳の文子が針で障子に穴を開けるいたずらをしたときは「嬢や、おまえ針をおもちゃにすると手々いたいいたいするよ」と声をかけるのみ。怪我をしたところで初めて優しく諌めるが、ふと障子の穴が直列であることに気がつき「是れぞ即ち幾何の観念の芽出しー工夫力の卵!」と天啓を得る。そして錐を渡し、紙に四角や三角を穿たせて「ソラ四角お箱のようなものができましたよ」「何に似ているだろうねえ......富士のお山かね」と励ましながら工作の授業に突入していくのである。危険を察知しても過度に干渉せず、子どもにあえて体験させて自主性を養い、あまつさえそこから新たな勉強に繋げるなんて方法は、現代でも十分理想の子育てとされるだろう。また「第四回 恵みの露」では、学校から帰宅した文子に今日習った「修身の格言と事実」を報告させ、事前に丸をつけて選んでおいた新聞記事を読ませるなど、春子の隙のない教育ママぶりには思わず、よっ、完璧主義のセレブママ! と122年先から声をかけたいくらいである。なにしろ新聞を読んだ文子令嬢、貧乏車夫の話にいたく心を動かされて小遣いを新聞社付けで送ることまで決意するのだ。小学生にしてノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)の実践者とは、この母にしてこの子あり。

 とはいうものの、乳母も下女もいるようなお金持ちの奥様が優雅に子どもを教化する話を読まされても鼻白まないでもない......などと思いながら「緒言」を読むと、逍遥は「(引用者注:子供にとって)家庭教育の良否〈よしあし〉は大いに学校教育に影響〈さしひびき〉するものなれり」との信念を胸に、日々忙しい親たちに読みやすいよう小説体に書き下したとおっしゃる。つまり、この本は小説というより世の夫人たちへの啓蒙書なのである。どうりでつまら......いや、教科書的だったわけだ。では、逍遥がなぜこんな啓蒙書に手を出したのか。

 その謎を解くカギは明治28年という出版時期にある。
 日清戦争に勝ったこの頃は、いわゆる良妻賢母教育まっただ中。本のタイトルにもあるように『未来之軍人』として国家の財産である子どもの教育を家庭の中から徹底せよ、それは家事や育児を取り仕切る母(夫人)の領分であるという思想が逍遥をして執筆に駆り立てたと思われる。とはいえ、教育勅語を「経文」化して唱える式のものであってはならないという信念もあった。実は逍遥、本作発行の約1ヵ月前に早稲田中学校創立時の教頭職に推挙されている。これにあたり、中学校や小学校に足を運び、大量の国内外の倫理本に目を通したといい、本作にある「泰西大家の理説」、「彼〈か〉の英国に名も高きスペンサー翁が著しし如く」といった文言もそれを裏付ける。スペンサー翁とはイギリスの社会学者で哲学者ハーバート・スペンサーのこと。現代ではほとんど読まれなくなったが、明治10~20年代には『教育論』『社会組織論』などの著作が50以上も翻訳されて「スペンサーの時代」と呼ばれるほどの一大ブームを築いた。その教育論は、子供を叩いたり脅したりしていうことを聞かせる強制的方法ではなく、愛情と信頼を軸に道徳的感情と共感力を育てて支配すべし、というもの。まさに「家庭教育 賢夫人」そのもので、取材と資料から導きだされたひとつの成果が本作だったと思われるのだ。

 とはいえ、そんな理想的な家庭教育、それ以前に理想的な生活をしていた人が世間にどれほどいたかといえば心もとない。そもそも春子は子爵の出だが、爵位のある家つまり華族は明治28年当時、人口の0.01%(『華族青年会雑誌』)でしかなかった。ほぼ雲の上の人と言ってもいい。また春子は「某貴婦人学校」を出、娘の文子も後に女学校を出ているが(実は明治28年に文子は結婚したというオチが最後に付け加えられている。つまり4歳の頃の話は明治15年前後なのだ)、文子と年齢的に近い与謝野晶子は小学校ではなく漢学塾(私塾)に行った後、女学校の技芸科(家政学)に通っている。明治15年の女子小学生の就学率は30%程度(『学制百年史』)、大半の子は家業の手伝いをしたり針仕事で賃金を得たり工場勤め、女中奉公に出たりしていたのだ。そう考えると、本書「家庭教育 賢夫人」がいかに限られた人々に向けられていたかがわかるというもの。
 しかし、これより7~8年後となると様相が変わってくる。そんな時代の「賢夫人」小説2篇を、後編ではご紹介しよう。

※本作品は国会図書館NDL-OPACの書誌情報で「著者標目 坪内,逍遥」とあるものの、選集や事典、『逍遥書誌』などの文献には記載がない。識者のご教示を待ちたい。

(『未来之軍人』の書誌情報調べにおいて、北原尚彦、盛林堂書房・小野純一の両氏にご指南をいただきました。/編集部)