9月20日(火)広岡達朗のこと

監督 (文春文庫)
『監督 (文春文庫)』
海老沢 泰久
文藝春秋
541円(税込)
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 講談社のPR小冊子「本」10月号を読んでいたら(高島俊男「漢字雑談」が早いものでもう19回だ)、二宮清純の「広岡達朗(1)指導者生活の原点」が目に止まった。「新野球紀行77」とある。

「指導者の価値はユニフォームを脱いでから決まる」という書き出しで、この「広岡達朗㈰指導者生活の原点」は始まっているが、七十九歳になりながら、今も意気軒昂な広岡に指導の極意を訊ねたと書いてから、二宮清純のインタビューが続く。そうか、広岡は七十九歳なのか。

 広岡が根本隆夫監督(故人)の要請で広島の内野守備コーチに就任したのが一九七〇年。そのときに苑田聡彦という外野手がいたのだが、内野手として育ててくれと広岡は根本に言われる。これがサジを投げたくなるほどの下手で、「素材がだめだから外野手に返したほうがいい」と根本に進言する。ところが根本は、「責任はオレがとるから」と指導の続行を要請。すると教え始めて一年半くらいたったときに、苑田聡彦はどんな球でも体の真ん中ですっと捕るようになる。うまくなったなあこいつと広岡は喜ぶ。苑田にそれを言うと、自分ではうまくなったとは思わない、ただ一生懸命やってるだけと言う。しかし確実に守備は上達している。そのときに広岡は思う。

「正しい教育さえしていれば、人は必ず育つものなんだと。このことは逆に苑田から教わりましたよ」

 (1)とあるからにはこのインタビュー、しばらく続いていくのだろう。とても楽しみだ。広岡はこのあとヤクルトの監督になり、西武の監督になるのだから、話はたくさんあるはずだ。あの海老沢泰久の『監督』(もう一人の広岡を主人公にした野球小説の大傑作だ)の裏側を聞くことが出来ると想像するだけで楽しくなる。

 これはこれまでに幾度か書いてきたことなのだが、実は私、幼いころからの広岡ファンである。後楽園球場の内野の芝の奥深くに孤独に立っている広岡に、小学生の私はしびれた。いつも広岡は所在なげに立っていた。本来の自分がいる場所はここではない、と言いたげな雰囲気が広岡にはあった。いやもちろん、それはすべて私の勝手な妄想だが。私が小学生のころ、失策王になりかけた年が広岡にはある。新聞のスポーツ欄で広岡の失策数が増えていくのをはらはらしながら確認していた記憶がいまでも鮮やかだ。

 それを子供心にこう考えた。広岡は駿足のぶん、守備範囲も広く、普通の遊撃手なら追いつけないゴロでも追いついてしまう。ところが無理したぶんだけ弾くことがあり、結果として失策にカウントされるのではないかと。守備が下手なのではないと。つまり、小学生の懸命な広岡弁護論である。

 私が中学に進級した年に、あの長嶋が巨人軍に入団する。あのスーパースターをけっして嫌いではないけれど、しかし広岡ファンの私は面白くなかった。というのはショートにまかせてもいいゴロを、長嶋が駆けてきて、すっと捕ってしまうのである。で、華麗なフォームで1塁に投げると当然、みんなが拍手する。でも私は、「広岡のゴロを捕るなよな」と何度も思った。

 という昔話は以前もどこかで書いたことがある。ファンになることに深い理由はない。後楽園球場の内野の奥深くに立っていた広岡を見た瞬間から(その立ち姿にはインテリの孤独という風情があった)、一目で恋に落ちるように私は広岡に囚われてしまったのだ。

 突然思い出した。海老沢泰久『監督』のラスト近くに、辞めることを決意した広岡のところへ監督やめないでくださいと一人の選手が電話してくる場面がある。あれはおそらく若松だ、と何かの書評で書いたら、そのときの編集者に「そんな場面はありません」と言われたことがあるのだ。そのときにどうしたのか、調べたのか直したのか、私の勘違いだったのか、その編集者の勘違いだったのか、ずいぶん前のことなのでもう覚えていない。

 いまも残っているのは、若松らしき人物が広岡に電話してきたという私の記憶と、そんな場面はなかったという編集者のチェックだけである。本当にそんな場面はなかったのだろうか。では私の記憶に残っているのは何故なのか。いや、他にもそれに近いことがないわけではないので、私の勘違いということも十分にあり得る。調べてみようと思いながら、いつもそのままになってしまうのである。