第83回

 1月号の校了後は、もう恒例になっているサイパンロケが待っていた。
 このロケの時、英会話能力が覚醒した。何回も海外ロケに行っているのに話せなかったのといわれそうだが、恥ずかしながらその通りだ。中高の授業と大学での一般教養の授業以外で英語を習ったことがなく、現在のように日本全国どこでも外国人が街を歩いているわけでもなかったので、実際にしゃべる機会もほとんどなかった。
 グアムやサイパンでは、観光施設は、日本語の話せるスタッフがいて、その気になれば全く英語を使わなくても平気だった。ホテルも同様で、一応英語モードに切り替えて、モーニングコールを頼むのだが、実際の会話はこうだった。
「ハロー、モーニングコール、プリーズ」
「何時ですか」
「シックス、オクロック」
「はい。わかりました」
 傍で聞いていると英語で会話しているようだが、実際は日本人であるオレが英語を話し、外国人の従業員が日本語を話す、完全にアベコベだ(笑)。

 ロケの3日目、オブジャンビーチで一通り撮り終え、次のポイントに向かおうと車をUターンした時、スタックしてしまった。いろいろ手を尽くしてはみたものの、タイヤはどんどん砂地に食い込みニッチもサッチもいかない。その日は、桂川の撮影の最終日で、時間を無駄にするわけにはいかなかった。
「これは、誰かに引き上げてもらうしかないな」
 Fカメラマンもお手上げの様子だ。
「ちょっと探してきますね」
 とは言ったものの、元々ひと気が少ないから、撮影ポイントにしているので、見渡す限り、人がいる様子は全くない。海外でも使える携帯などもちろんない時代だし、公衆電話があるような海の家ももちろんない。時間は刻々と過ぎてゆく、気ばかりが焦っていた。

 誰かいないかと300メートルほど海岸線を所で歩いたところで、チャモロ人が家族でランチピクニックをしているのを見つけた。地獄に仏とばかり、父親らしき男に話し掛ける。
「すいません。わたしたちの車がスタックしてしまったのですが、牽引用のロープとかお持ちですか?」
「いや、持ってないね」
「それじゃあ、近くの公衆電話のあるスーパーまで、私を車で運んでもらえませんか?」
「いいよ」
「ありがとう」
 考えるまでもなく、スラスラと英語が口から飛び出した。
(オレって、こんなに英語が話せたっけ?)
 自分でも理解できなかった。
 2キロほど走ったところにスーパーを見つけ、公衆電話でレンタカー屋に救助を頼み、再び車にビーチまで乗せてもらった。そして、男には、スーパーで買った半ダースのコーラをお礼に渡し、スタッフの待つ撮影現場に戻った。

 なぜ急に英会話ができるようになったのか、後付けと無理矢理な理屈で考えてみた。オレは、受験勉強のためもあって、これまで数千の英単語や熟語を暗記している。ただ、それはあくまで知識として脳に詰め込まれているだけであって、会話に使うものとして認識されていない。それが車のスタックというトラブルにより、英語をどうしても使わなければ切り抜けられないという場面に遭遇することで、知識と言語中枢が何らかの形で結びついたのだろうというのが結論だ。SFで、主人公が命カラガラの場面で、超能力が発動するパターンはありがちだが、オレの英会話能力の覚醒もそれと同じだったのかもしれない。おかげでこれ以後、英会話で不自由することはほとんどなくなった。