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11月8日(木)

ことり
『ことり』
小川 洋子
朝日新聞出版
1,620円(税込)
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 朝、小川洋子の『ことり』をじっくり読みたいがために南浦和駅にて京浜東北線の始発を待つ。オヤジたちとのショルダチャージ合戦に勝ち、安住の地を手に入れ、ページを紐解く。

 一行目から至福の小川洋子ワールドにどっぷり浸かっていたのだが、あまりに浸かりっぷりに駅を乗り過ごしたのではないかと慌てて顔を上げたが、そこはまだ日暮里駅であった。助かったと安堵しつつ、またページに視線を移そうとしたとき、ふと気になるものが視線を横切った。

 それは私の目の前に立つ二人のおばちゃんだった。二人ともつり革につかまって、なんと本を読んでいたのだ。それは2007年にスマホが登場して以来、たった5年でレッドデータブックに絶滅危惧IB類として登録されようとしている「通勤電車で本を読む人」であった。

 久しぶりに野生の「通勤電車で本を読む人」を見つけた私は、歓喜にわき、その姿を写真に撮ろと、ポケットにしまっておいたスマホを取り出したのだが、二人のおばちゃんが手にした本が妙にピカピカと光るなと改めて見つめなおすと、どちらも図書館の貸し出し本であることを示す蔵書ラベルが貼られていたのであった。

 おお、せっかく見つけた「通勤電車で本を読む人」もすでに野生ではなく、保護センターで保護された「読者」だったのか。先程までの歓喜は一気に冷め、もはや写真を撮る必要もなくなったスマホをポケットにしまうと、私はまたあと5駅と迫った乗換駅まで『ことり』の世界に没頭したのであった。

★   ★   ★

 さて、おばちゃん二人が読んでいた本は、夏樹静子『Wの悲劇』(角川文庫)と『50才からの再入学パソコン塾』(技術評論社)という本だった。

 文庫ぐらい図書館で借りずに買えよと思ったのは出版社の人間が持つ共有の意識だろうが、そうは言っても買ってくれないのである。その傾向は一段と強くなっており、おそらく財政破綻で図書館がなくなるまで続くだろうし、あるいは逆に町の本屋さんがなくなりつつある現代に置いて、公共図書館と学校図書館がなかったら子どもたちは、いや大人も含めてほとんどの人が身近に本を手にする機会がBOOKOFFでけになってしまうという可能性もあり、図書館の価値はより高まってくるかもしれないのだった。

 しかしそうは言っても図書館で1冊の本を1000人が読んでも出版社に入ってくるのは1冊の売上しかないのである。それは出版社以上に苦しい立場にいる著者も一緒のことで、夏樹静子はともかくとして多くの作家は自分の本を図書館で借りて読んだと言われたりその姿を見かけたときに歯がゆい思いを抱えているだろう。

 ならばどうしたら図書館で本を貸すことによって出版社や著者はお金を得られるのだろうか。貸し出し料を取るとか入館料を取るというのが簡単なことだが、おそらくそれは既得権を奪うことになるから難しいだろう。そうではなく今と違う発想でお金を生むことはできないだろうか。

 例えば図書館=無料(税金のことは脇にどけておく)ということは要するに「FREE」の精神なのだ。ネット企業のGoogleにしてもFacebookにしてもTwitterにしてもサービスはすべで「FREE」で提供し、それで人が集まるようになると広告収入などで収益をあげていき経営を成り立たせている。これを図書館に導入したらどうなんだろうか。

 いわゆる単行本や文庫本には広告が入れられないようになっているのだけれど(入れようと思えば入れることはできるけれどその分取次店へ納品する掛率が下がる)、図書館納品分に関してはそこを取っ払い、表4に大きく広告スペースを取る。

 印刷段階で広告を入れるか、あるいは図書館納品時に大きく広告を印刷したシールを貼ってもいいのかもしれない。シールならば時期が来たら電車の中吊り広告のように別の広告に替えることも可能だから、そちらのほうがいいかもしれない。あるいは蔵書ラベル自体を大きくして広告にしたらどうだろうか。

 そうやって表4に貼られた広告は、図書館で貸し出された際には家で見られ、またこの日私が目撃したように電車のなかで本を読む人によって電車の中吊りと同等の効果が得られるのではなかろうか。あるいは特殊広告電車のように図書館一館まるごとひとつの広告が付いた本で埋めるということも可能にしたら面白いのではないか。

 図書館に来るあの人の数はTwitterの利用者数を上回ったりしないのだろうか。

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