第163回:仁木英之さん

作家の読書道 第163回:仁木英之さん

美少女仙人と駄目青年の冒険を描く『僕僕先生』のシリーズで人気を博し、古代ファンタジーから現代小説まで幅広く執筆活動を広げている仁木英之さん。中国の歴史に詳しいのはなぜ? 次々とエンターテインメント作品を発表している、その源泉は? 人生の転換点のお話をまじえつつ、読書遍歴についておうかがいしました。

その3「長野で塾を経営する&小説を書く」 (3/5)

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――2年間経って、帰国した後はどうされたのですか。

仁木:仕方ないので就職活動して、スーパーの西友に勤めたんですが、ほどなく上司の方と、一緒に独立して小売店みたいなものをやろう、という話になったんです。で、僕が仕事を辞めたあたりでその話が頓挫しまして、フリーターになりました。

――へええ。それがおいくつの時ですか。

仁木:24歳の時ですね。そこから丸1年間フリーターをして、その間にやっぱり本をよく読みました。トム・クランシーとか、フレデリック・フォーサイス。冒険小説でした。自分のいる状況が辛かったので。

――主要人物たちが追い詰められて、でも終盤で逆転劇があるという展開がよかったのでしょうか。

仁木:そうです、そうです。フォーサイスの『ジャッカルの日』や『神の拳』、スティーヴン・ハンターの『極大射程』なんかも面白かったですね。田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』を読み始めたのもその頃だと思います。当時は何が売れている本かも全然知らなかったので、本屋にフラフラと行っては「良さそうやな」「面白そうやな」と思う本を選んでいました。
それで、フリーターを1年やっている時に、たまたまバイトしているコンビニに来るアメリカ人と仲良くなって、学習塾と英会話教室を併設した教室を立ち上げることになりました。それが26歳の時です。それで、結局長野市で8年間塾をやって、小学4年生から浪人生まで面倒を見ていました。物理と化学以外は僕が自分で教えていました。テキストも市販のものを作る部分もあれば、自分で作る部分もありましたね。

――それはまた、忙しかったのでは。

仁木:最初は忙しくて、なかなか小説を読む暇もなかったんですけれど、ああいう業種は波があるのか、30歳の時に1回、ふっと暇になったんです。それで今度はパソコンの美少女ゲームにハマってしまいました。自分が主人公になって、女性と仲良くなるという内容ですが、ちょっと小説仕立てなっているのが面白かったんです。その二次創作を始めたのが、僕の書いたはじめての小説です。

――小学生の時に抱いていた「作家になりたい」という気持ちとはまた別の動機だったんですねえ。

仁木:そうです。作家になりたいわけじゃなくて、ゲームの世界観のなかで自分が楽しみたいという。で、同人誌活動をするようになり、コミケにも出るようになって、その時の友達に「オリジナルの小説も書いてみいひんか」と言われて、それがまあ、いわゆる普通の小説を書きはじめたきっかけです。だから最初はまったくの手探りで、仕事に追い詰められた人間が黒部ダムに飛び込む話とかを書いていました。

――今とまったく違いますね。

仁木:そうです、暗い話が多かった。で、ようやくネットが普及しだしていろいろ見ているうちに、小説には新人賞があるんだということをはじめて知りまして。塾もちょっと暇だったので「じゃあ1年間頑張ってやってみよう」と思って、本格的に書きはじめて、投稿を始めました。それが31歳の時ですね。で、1年間で7作書いて、7社に送りました。SFっぽいものも書いていましたね。

――1年間で7作なんて、書くのがずいぶん早いですね。

仁木:そうかもしれません。でも同人誌の二次創作をやっている時はネットに1日1話、1000文字くらいを毎日書いていましたから。読者のカウンターが一日に3000人とかいくので、それが楽しくて毎日書いていたのがいい鍛錬になりました。
応募した賞はいろいろです。自分が何を書けるのか見当もついていなかったんで、向こうに判断していただこうと思って。この時に新潮社の日本ファンタジーノベル大賞に『僕僕先生』を送って、大賞をいただきました。他にもうひとつ、『夕陽の梨』で学研歴史群像大賞の最優秀賞も受賞しました。それは中国の五代が舞台でした。他は全部一次落ちだったと思います。

――『僕僕先生』は唐の時代、王弁というぐうたらな青年が、見かねた父親に仙人のもとに送り出されるのですが、その仙人が見た目は10代の少女だったという。この設定はどこから生まれたのですか。

仁木:プロを目指そうとした時、なんとなく、人と違うことをやろうと思ったんです。それで、ネットでオリジナル小説のコンペがあったので応募するために図書館に行って資料を探していた時、中国の『太平広記』という説話集をめくっていたら、「僕僕先生」というお話を見つけて。
それはいわゆる道教の道を愛する人のところに、僕僕先生という仙人が来て、ご利益がありました、というだけの話です。そこに出てくる僕僕先生が女の子だったら面白いよなと思い、一方で王弁のことはちょっと駄目な感じにしました。駄目な感じの青年は自分でよく分かっているので書けると思ったんです。それが短篇のコンペで1位を獲ったので、「これはいけるかもしれない」と思い、応募作を書いたんです。

――それで1年で7作書いて、複数の賞を受賞して、しかも「僕僕先生」は人気の長寿シリーズになっています。すごいですね。

仁木:本を読んでいない時期もあって、文学的な素養もなかったのに、ありがたいです。『僕僕先生』もシリーズ化は考えていなくて一作で完全に終わっている話だったんですけれど、新潮社の方に「続けていきませんか」と言われて、結末をちょっと変えたんです。

――そもそもいきなり「最終選考に残りました」という連絡がきてびっくりされたのではないですか。

仁木:ああ、僕、その頃それどころではなくて。当時付き合っていた彼女に振られて精神的にヘロヘロになっているところだったので「最終選考に残りました」と言われても、よく分からない状態でした。受賞の連絡があった時はだいぶ正気に戻っていたんですけれど、現実味はあまりなかったです。
そこからが大変でした。新人さんはみんなそうかもしれませんが、特に僕は、作家としての土台がゼロですから、2巻目を書いてもなかなか通らないんです。400枚くらい書いてもボツになったりして、これでは到底専業作家にはなれないと思いました。作家自体も無理かなとも思ったんですが、その後わりと本がコンスタントに出していただけるようになりました。

――試行錯誤の時期に何か掴むものがあって、成長したということですよね、きっと。

仁木:ああ、でも書くのが楽しかったんですよね。同人時代から、やはり書いて読んでもらうって最終的にすごく楽しいことだと感じていました。だから「なんとかしたい」という気持ちがあったと思います。

――その後もいいペースで出されていますよね。一般文芸としては多作な印象もあります。

仁木:自分では多作という感じはなくて。「仁木さん、今度はこんなのはどうですか」と提案していただいたので「こんなのどうですか」とプロットを出して「やってみましょう」と言われて「いつくらいまでに」と言われて締切までにばーっと書く、というのが自分の中で割と自然なリズムになっていて。

――ご自身の作家としての方向性、書くジャンルというのはどのように考えていますか。

仁木:ファンタジーノベル大賞授賞式の時に、「どんな作家になりたいんかな」と考えたんです。それで3つ目標を立てました。わりとあちこちで言っていることなんですが、「世界で読まれるファンタジーを書いてみたい」「歴史の狭間で陰になっている人を描きたい」「敗れて、なお敗れざる者を物語にしたい」。なんとなく、自分がずっと負けてきた人間かなと感じていたので、そういうものを小説にしていきたいと思いました。

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