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第1回

汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
(『新版放浪記』林芙美子・新潮文庫)

海と云っても、前に大きな島があって、河のように思われた。何十隻という漁船や荷船が所々にもやって来る。そしてその赤黄色い灯の美しく水に映るのが、如何にも賑やかで、何となく東京の真夜中の町を想わせた。
(『暗夜行路』志賀直哉・新潮文庫)

今まで、多くの文学者が尾道に魅せられている。
穏やかな気候、眺めているだけで心が静まる風景、活き活きとした人々の暮らしぶりに憧れ、山と海に挟まれた小さな町に移り住み、その景色や生活を描いてきた。こうして尾道は、いつしか「文学のまち」と呼ばれるようになったのだ。尾道ゆかりの作家には、感じたままを素直に表現する人が多い。自由に思うままを描くには、情趣と活気が同居する尾道は恰好の舞台なのだろう。

もしかしたら、わたしの祖先も、志賀直哉や林芙美子の家族のように、この町に魅せられ安住の地として選んだのかもしれない。志賀直哉が障子を開け、いつも眺めていた対岸の島は、わたしの生まれ育った島だ。造船会社に勤める父や船乗りを目指して商船学校に進んだ兄と同様、海に囲まれて暮らすことが当り前のこととして育った。しかし、わたしには海よりも好きなものがあったから、父や兄とは違う道を選んだのだ。大学を卒業して地元に戻り、尾道の書店に就職した。

わたしが勤める啓文社は、広島県に二十店舗を展開する書店チェーンである。かつては煙草元売捌を生業としていたらしい。ところが、昭和の初めに突然、元売捌制度が廃止されたため煙草が取り扱えなくなり、転業せざるを得なくなった。今まで人のからだに害を及ぼすもので儲けたから、今度は人に役立つものを売りたい。そんな理由で書店を始めたそうだ。
たしかに、わたしたちが扱っている本は、人の生活に大きな影響を及ぼしている。本は、人生の節目に必要とされることがあるし、人生を変えるきっかけになることさえある。

入試参考書や資格試験問題集などの問い合わせや注文を受ける時も、その切実な様子に、書店が担う役割の大きさを思い知ることがある。
「娘をどうしてもこの学校に入れたいの。絶対に合格する問題集ありませんか」という切羽つまった問い合わせや、「明らかに高望みの学校を受験しようとする息子に諦めるよう説得してほしい」という御門違な要望に遭遇したりする。
昨年はこんなことがあった。レベルが高い進学校の過去問題集の解答に誤植が見つかった。親が発行元にクレームの電話を入れたが、その対応の悪さが怒りの火に油を注ぐ結果となった。「次回、出荷する商品から正誤表を挟み込みます」。今、全国の書店にある問題集はどうするのだ。既に買ってしまった受験生がそのまま間違った解答を鵜呑みにして受験したらどうするのだ。さらには、「啓文社ともあろうものが、こんな非常識な出版社が発行する問題集を扱うなんてとんでもない。今すぐ全商品を返品し、今後、この出版社の商品は一冊たりとも販売しないほしい」と詰め寄られる。出版社と連絡をとり責任を持った対応をとらせることを約束して、何とか溜飲を下げてもらった。

もちろんトラブルだけでなく、「店員の人が薦めてくれた問題集で合格できた」とわざわざお礼を言いに来店されたという話も聞いたことがある。特に、試験は一生を左右する場合もあるので神経をすり減らすが、書店員冥利に尽きる喜びも多い。

わたしは本を読むことが好きで、本に囲まれた仕事を選んだが、書店員としての刺激的な毎日は、わたしの価値観を少し変えた。

本を読むのが好き。本を売るのはもっと好きなのだ。

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