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第52回

1Q84 BOOK 1
『1Q84 BOOK 1』
村上 春樹
新潮社
1,890円(税込)
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1Q84 BOOK 2
『1Q84 BOOK 2』
村上 春樹
新潮社
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1Q84 BOOK X <5月―6月>

第1章【書店員】 これは何かの始まりに過ぎない

「村上春樹さんの書き下ろし小説の発売が5月29日に決まりました」
新潮社営業部のHさんはいつものように落ち着いた表情で、淡々と告げる。
「そして、内容は発刊まで一切明らかにされないことになっています」
Hさんの冷静な口調の向こうに、わたしの興奮ぶりをみて楽しむかのような眼差しが見える。
まったく無駄骨に終わるかもしれないが、事前注文をしなければならない。『アフターダーク』(講談社)が刊行されたのは2004年だから、5年ぶりの長編小説。注文数を決めるにあたり、5年前の売上実績が参考になるのか。
初刷は「BOOK1」を20万部、「BOOK2」を18万部と予定しているそうだ。こんなたくさん刷るなら、初速を見て、適正な追加数を決め、手配することができるくらい数は入荷するだろうと、高を括り、とりあえず、希望数を、Hさんにメールした。
しかし、後にこの考えが大きな間違いだったことを思い知らされる。

第2章【読者】 気球に碇をつけるみたいにしっかりと

村上春樹の待望の長編新作のタイトルは『1Q84』だと、特設サイトで発表されたのは今年3月のことだった。その時、発売は「初夏」とあった。
SF小説『1984年』(ジョージ・オーウェル/早川書房)と関係あるのだろうか。
大学時代、ユニークな英語の先生がいて、『1984年』の読書感想文を書くという課題が出た。英語と何の関係があるのかわからないまま、読んだが、これが実におもしろかった。
『1Q84』もこれに劣らず、わたしたち読者を堪能させてくれるに違いない。期待はまるで気球のようにふくらむばかり。どこかに飛んで行ってしまいそうだ。

第3章【書店員】 変更されたいくつかの事実

発売直前の5月26日。全国の書店から注文が殺到し、新潮社は、発売前にもかかわらず増刷を決めた。このことを知らせてくれたのは、例によって、新潮社のHさん。受話器の向こうの声は、相変わらずクールだ。
「それから、初回配本数が決まりました。申し訳ないのですが、全国の書店からの予約が多過ぎて、希望数どおりに配本することができません」
この日のニュースは、アマゾン・ジャパンの予約が1万冊を突破したと、Hさんとは対照的に熱く報じた。
新潮社から届いたポスターを店頭に掲示しているか。発売したら最も良い場所で展開すること。映画化が決まっている『ノルウェイの森』(講談社文庫)をはじめとする既刊や関連書籍を併売すること。各店に、念のため、確認をする。
さあ、どんな売行きをみせるだろう。

第4章【読者】 あなたがそれを望むのであれば

発売日。
新刊が入荷する時間を事前に確認し、搬入口で待ち構える。売場に並ぶまでとても待てなかったのだ。書店員という立場を利用し、店頭に並ぶ前に手に入れようという算段だ。新刊が詰められたケースを1箱ずつ開荷していくスタッフに無言の圧力をかける。もっと早く開けなさい。速やかに『1Q84』を渡しなさい。
「私の方が先ですからね」
声がした方を振り返ると、後輩社員の田口さんが仁王立ち。

第5章【書店員】 気に入ってもらえてとても嬉しい

発売日。
担当者は、ワゴンに乗せ、売場に運ぶ。あらかじめ、決めておいた平台に積んでいく。お客さんが立ち止まる。そして手に取って、見ている。すごい。
本社に戻って、販売データを確認する。ほとんどの店が完売状態。やばい。

第6章【読者】 ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごと

「BOOK1」を読み終わるまで約一週間かかった。今までの村上春樹作品には見られなかった新たな試みがあり、新鮮味がある。
「BOOK2」は休日を利用し、丸一日かけて一気に読んだ。こちらはいわゆる村上春樹さんらしさが全面に出ていたように思える。
田口さんにもう読んだかと訊いてみると、まだ「BOOK2」の途中だという。
「だって、すぐに読み終わるともったいないじゃないですか。時間をかけてじっくり味わうんです」
新浜店の大江さんにも訊いてみた。「もう読んだ?」
「まだです。お客さんが優先ですから。売り切れないくらいたくさん入荷したら買います」

第7章【書店員】 ちょっとした別のアイディア

CDの仕入責任者から、作品の中に登場するヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の仕入数について相談を受ける。冒頭からたびたび登場する曲だ。
小説で取り上げられたからといってそんなに売れるのか。CD担当者が躊躇するのも無理はない。しかし、発売わずか12日目でミリオンセラーを達成した作品である。しかも、印象的な場面で、重要な役割を持って流れてくる曲なのである。『1Q84』を読み進めるうちに、きっと、この音楽を聴いてみたいと思うだろう。そこで、「そういえば、CDを並べて売っていた」と思い出してくださるはずだ。
『1Q84』の関連商品といえば、ジョージ・オーウェルの『1984年』もそうだ。作品の中でどこまで深く関連づけて描かれているかがポイントだった。大したつながりがなければ、たくさん仕入れて併売しても期待できない。これを確認するために一刻も早く読んでおきたかった。
読み終えて、納得し、『1984年』を注文した。ハヤカワ文庫は残念ながら品切れ。しかし、同出版社から、epi文庫として新訳版が発売されることになっていた。6月刊行予定が、7月に延期されたが、それを注文した。

第8章【読者】 あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは

『1Q84』は、驚異的な売行きを示し、話題を集め、社会現象とまで言われるようになった。読書する習慣を持たない人までが動かなければ、ミリオンセラーにならない。それは至難の業のはずだが、『1Q84』は、いとも簡単に100万部を超えた。
今まで村上春樹さんは熱烈なファンがいる一方で、独特の春樹ワールドが苦手だという感想を持つ人もいた。しかし、『1Q84』は、従来のファンの期待を裏切ることなく、新たな読者を獲得しやすい作品だと思う。
「今、話題になっている『1Q84』ってどう?」と、よく尋ねられる。皆、気になっている証拠だ。
「面白さは保障します。絶対、読んだ方が良いですよ」と話している。

第9章【書店員】 専門的な技能と訓練が必要とされる職業

発売以来、小刻みに重版は行われ、そのたびに追加は入荷している。しかし、一、二日でほとんどの店が売り切れてしまう。もちろん、今後も重版が予定されているが、異常とも思える売行きは、いったいいつまで続くのだろうか。
そして、『ノルウェイの森』も、文庫部門の売上ランキング上位に上がってきた。
不況下でこのようなベストセラーはありがたい限りだが、書店チェーンの仕入担当としては売行きの確認と商品確保に神経をすり減らせる毎日である。
仕事の帰り道。ふと見上げると、月が二つ浮かんで見えたような気がした。
疲れているのだろうか。それとも、別の世界に迷いこんだのか。

第10章【読者】 時間がいびつなかたちをとって進み得ること

『1Q84』はなぜ「上巻」「下巻」ではなかったのだろうか。わざわざ「BOOK1」「BOOK2」としたのだから、もしかしたら続編があるのだろうか。「BOOK2」を読み終わった限りでは、物語は終わったようでもあるし、続くような気もする。
しかし、これだけは断言できる。
『1Q84』ブームはまだまだ過熱していく一方だ。

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