第十四回 土山-新居-江尻

  • 新・東海道五十三次 (中公文庫)
  • 『新・東海道五十三次 (中公文庫)』
    武田 泰淳
    中央公論新社
    994円(税込)
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  • 東海道徒歩38日間ひとり旅 (小学館文庫)
  • 『東海道徒歩38日間ひとり旅 (小学館文庫)』
    糸川 燿史
    小学館
    18,049円(税込)
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 自分の半生をふりかえると、トントン拍子に事が運んだというような経験は少ない。たいてい最初は躓いて、ジタバタして、どうにかこうにか帳尻を合わせてきた。
 行き当たりばったりに事をはじめてしまうから当然のように壁にぶつかる。そこから本番というか、どう壁を避けるかというところから頭が働きだす。
 たぶん、こういうタイプの人間はかっちりした目標を立てるより、とりあえず、漠然と方向だけを決め、行けるところまで行くというやり方が合っている。最初からうまくいく方法を目指すのではなく、失敗を修正していく手立てを磨いていくよりほかない。それは旅にもいえる。
 街道歩きをはじめたとき、東海道や中山道を日本橋から順番に......というような計画を立てていたら、まちがいなく道半ばで挫折していた自信がある。
 東海道双六のようにサイコロを振って、その日の気分で宿場町を訪れるくらいがちょうどいい。

 四月一日、天気予報は雷雨。この日は母と母の弟のトシおじさんといっしょに田村神社に行く予定だ。それにしても寒い。気温は十度以下。亡父のタンスの中にあった山登り用のアウターを借りる(というか、もともとわたしのものだった)。色が変色していたが、暖かい。
 田村神社は東海道の土山宿(滋賀県)にある。
 土山宿は東海道の中で、三本の指に入るくらい電車で行きにくい宿場町だろう。東京方面からだと鈴鹿峠を越えた先の最初の宿場町だが、三重側(JR関駅)からも滋賀側(近江鉄道の水口駅など)からもそれなりに距離がある。
 郷里の鈴鹿からはJRの関駅まで行って、そこから歩くしかない。半日以上はかかる。以前、水口宿を歩いたとき、鈴鹿峠を越えて土山宿に行くかどうかギリギリまで迷ったが、悪天候を理由にスルーした。我ながら軟弱だとおもうが、雨の日に山を歩くのは怖い。とくに車が怖い。三重は車の運転マナーに関しては悪評の高い県なのだ。

 土山宿といえば、松山猛著『大日本道楽紀行』(小学館)という本がある。一九九八年刊。松山猛はザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」の作詞家でエッセイスト。この本は街道にはまる前から愛読していた。
 本書に「日本の歴史を支えつづける水と緑の甲賀路へ」という紀行文が入っている。

《僕が子供のころ、甲賀の土山にある父母の里から、季節ごとに米や茶、餅や果実などが、飛脚さんによって送られて来た。(中略)明治ごろまでは父方は川嶋屋、母方は柏屋という屋号で東海道五十三次土山宿で、旅籠や商家を営んでいたと聞く》

 少年時代の松山さんは馬を田村神社の川に散歩に連れていったことがあるそうだ。川の名前は野洲川の支流の田村川だろう。
 以前から母とトシおじさんが鈴鹿から車で田村神社にドライブに行くという話を聞いていた。歩くとものすごく大変だが、車だと鈴鹿から土山宿は近い。
 珈琲屋らんぷ鈴鹿店でモーニングを食べ、午前九時に出発する。
 亀山は九時十三分、関は九時二十分、坂下は九時二十七分に通り過ぎる。たぶん歩いたら五、六時間はかかる。車、すごい。約三十分で鈴鹿峠を越え、蟹が坂(蟹坂)も九時三十七分に通過した。
 鈴鹿峠といえば、山賊が有名だ。
 北園孝吉著『東海道宿場物語』(雄山閣、一九七二年)には、鈴鹿峠のことをこんなふうに記している。

《海抜三百五十七メートル、鈴鹿の山道には名物の雲助が旅人に付入って悪いことを平気でやる。ゴマの蝿といった連中が"道連れ"を無理強いしてタカリをやる。スリ、掻っ払いといった道中師。もっと昔は徒党を組んだ山賊が出たという》

 平安初期に坂上田村麻呂が、蟹が坂で山賊退治をした伝説が残っている。地名の由来は『東海道宿場物語』によれば、「昔ここで山賊が横行したので、カニの横歩きとシャレて蟹坂とした」とのこと。
 能の演目の「田村」は坂上田村麻呂の鈴鹿の山賊退治の話。
 山本茂実著『街道・風土と伝説の旅』(恒文社、一九六六年)に「山賊の道/生きている雲助街道・鈴鹿峠」という章がある。
 鈴鹿峠の山賊の話をいろいろ紹介しているのだが、その中に「北条早雲(一四九二年伊豆占領)の青年時代が、伊勢新九郎という鈴鹿の山賊だった話は有名である」という一文が記されていた。
 近年の研究では鈴鹿の山賊説は否定され、備中(岡山)の名家の生まれということになっている。なぜ鈴鹿の山賊説が広まったのか気になる。
 鈴鹿を出発した時は快晴だったが、わたしは傘を持っていった。トシおじさんは「今日は降らんに」と笑ったが、土山宿に入った途端、空が曇りだす。
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」という鈴鹿峠越えをうたった「鈴鹿馬子唄」という民謡がある。
 土山宿は雨で有名なところだと説明すると母が「鈴鹿馬子唄」を歌いだした。
 武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)でも「鈴鹿馬子唄」の歌詞を引用している。

《坂と峠と山あいとでは、すぐ近くでも晴、雨、曇と三つのちがいがあったのに、今では東京、京都の気候や晴雨、人情や風俗の「峠をこえた」などと感じ入っているひまはない》

 鈴鹿サーキットに寄った武田泰淳と武田百合子は、土山宿や水口宿を通らず、大津に行ってしまう。
「東海道本」には、土山宿を通らず、関から伊賀上野に抜け、大阪に向かうルートをとる本がけっこうある。旅の仕方は人それぞれでいい。
 そんなこんなで母とおじといっしょに田村神社を訪れる。森の中にある神社で空気が澄んでいる。神社内には御手洗川という小さな川が流れていて、趣のある橋がかかっている。
 昔からわたしは神社の参拝の作法を無視しているのだが、母も「ペコペコパンパンとかやりたないわ。あんなん昔はなかった」と文句をいっていた。遺伝か。
 参拝後、「神社の近くに東海道の旧街道があるから歩きたい」というと、道の駅の近くの駐車場に車を移動し、三人で土山宿を歩いた。
「こんなところあったんやな」とトシおじさん。「関宿とそっくりやな」と母。
 たしかに三重の関宿と滋賀の土山宿はちょっと似ている。町家が並んでいて、昔の宿場町の面影がしっかり残っている。
 土山宿の土山は山の名前ではなく、かつて土山なにがしという郷主がいたことが地名の由来だそうだ。
 一里塚跡、本陣跡などを見て、常明寺に寄る。道も歩きやすい。森鷗外の祖父が参勤交代の途中で病死し、この寺で弔われた。鷗外もこの寺を訪れているらしい。
 常明寺で雨が降ってきた。気温も真冬並。手がかじかんでメモがとれない。わたしと母が寺で雨宿りしているあいだ、トシおじさんが車をとりに行く。そういえば、三年前に父が亡くなった後、三人で関宿に行ったときも雨だった。
 車が到着する。ちょうど雨が強くなる。
 土山宿を後にし、関宿の近くの関ドライブインのフードコートで昼食。ラーメンとチャーハンのセットを食う。平日の午前十一時台だが、満席だった。この日、四月一日は新しい元号の発表の日でもあった。フードコートのテレビで新元号を知った。
 わたしは昭和から平成になった年に三重から上京した。平成のあいだの地方の変化をほとんど知らない。
 関宿の景観保護がこんなに進んでいたことを知ったのも最近のことだ。多くの宿場町に道標や案内板が設置されるようになったのは二〇〇〇年以降である。
 元号でいえば、平成のちょうど真ん中あたりに全国各地で旧街道の保存が活発になった印象がある。
 食事がすむと雨は止んでいた。しかし西のほうに雨雲が見える。
 トシおじさんに「石山観音に行ったことあるか?」と聞かれる。「行ったことない」「ここからすぐやで。あれは見といたほうがいい」
 ということで、関のドライブインから、津市芸濃町の石山観音公園に向かう。津市に編入される前は芸濃町は安芸郡だった。途中、伊勢別街道も通った。
 石山観音の駐車場のところで「魅惑の磨崖仏めぐり」というパンフレットをもらう。
 山は「加太花崗岩帯石山層」という地層で、約二千三百年前から約五百年前にできた地形らしい。
 石山観音は四十体以上の仏像がある。最大のものは五メートルくらい。鎌倉中期から江戸にかけて、次々と作られたようだ。
 ちょっとした登山。というか、登山だった。地図がないと迷いそうになる。順路を無視して、いきなり巨大石仏を見る。岩をくりぬいて作られた石仏は壮観。それでも急ぎ足なら三十分ちょっとで回れる。雨が降りそうだったので、二十五分くらいで回った。
 パンフレットには石山の頂上の南の「馬の背」からは伊勢湾に浮ぶ神島や知多半島も望める」と記されていたが、この日はまったく見えなかった。
 石山観音のあとは「高野尾花街道 朝津味」という農産物直売所に行く。また新しい街道を知ってしまった。再び小雨。フードコートがあり、コーヒーを飲む。母とトシおじさんはよく来ているらしい。
 ここも伊勢別街道沿いにある。再び、小雨。帰りの車の中で寝てしまう。疲れがたまっている。気づいたら、家の近くだった。

 四月二日、三重から東京に帰る。青春18きっぷは後一回分残っている。
 どこで途中下車するかは決めていない。郷里の家を出たときは愛知県と静岡県で一宿ずつ歩いて東京に帰ろうとおもっていた。
 ところが、朝八時台の電車に乗る予定が寝坊する。
 午前九時十二分、伊勢鉄道の鈴鹿駅へ。快速みえの時間に間に合わず、名古屋まで一時間二十分くらいかかる(快速だと四十分ちょっと)。
 遅れを取り戻すため、名古屋から一気に豊橋まで行き、そこから新居宿のあるJR新居町駅で降りる。
 いきなり愛知県を素通りしてしまった。でも行きに二川宿に寄ったからよしとしよう。
 午前十一時五十九分新居町駅に到着する。あっという間に昼だ。デイリーヤマザキでばくだんおむすびの明太子を買う。
 新居宿は、宿場町であると同時に関所(今切関所)、渡船場、今切(いまぎれ)湊の四つの機能を備えた町だった。
 東海道を歩いて新居関所史料館を目指す。駅からわりと近い。
 新居関所の創設時は、浜名湖の今切口の近くにあったが、元禄十二年(一六九九)、宝永四年(一七〇七)の災害で西北に二度移転している。
 池内紀著『東海道ふたり旅 道の文化史』(春秋社)によると、「新居を古くは『荒井』と書いたのは、遠州灘の波が荒かったからだろう」とある。
 新居関所史料館では「描かれた関所~あらい宿」という企画展が開催中だった(二〇一九年五月十九日まで)。
 新居の関所は海の関所だった。浜名湖は明応七年(一四九八)の大地震で砂州が決壊し、海とつながった汽水湖である。
 決壊したところが「今切の渡し」で船で行き来した。東海道の難所のひとつで、江戸期には今切を避け、本坂通(姫街道)を通る人も多かった。浜松、新居、白須賀、二川宿の四宿は、参勤大名の本坂通の通行禁止を訴えたこともあった。
 新幹線と東名高速道路の開通は日本の経済成長に大きく貢献したことはまちがいないだろう。その分、通りすぎてしまう町も増えた。
 今回の旅では行きに二川宿、帰りに新居宿をすこしだけ歩いたが、街道に興味を持たなければ、一生、立ち寄らなかった可能性が高い。
 スピードが上がれば上がるほど、それだけ通りすぎる場所が増えていく。昔はよかったというつもりはない。関所なんてないほうがいいに決まっている。関所では、男性よりも女性のほうが厳しく取り調べられた。関所女手形の取得も面倒だった。
 今のほうがずっと移動に関しては快適だ。でもその快適さが地方の衰退にもつながっているという現実もある。
 橋本治著『日本の行く道』(集英社新書)に「産業革命前に戻せばいい」という章がある。
 橋本治は東海道をはじめとする街道を「徒歩の鉄道網」と表現している。さらにこんな提言も――。

《交通手段を人力に頼って徒歩が中心の江戸時代に、馬車のような「複数の人間」を同時に運ぶ交通手段はなかったのかというと、ありました。舟は、いろんな人が同時に乗り込む「乗合」が基本です。(中略)川は第二の道路で、そのために輸送の拠点として栄えていた「川沿いの町」や「河口の町」がいくつもありました――それらの多くは、もう今となっては「寂れた」になってしまっていますが。地方の再生には、こうした「エネルギー革命の転換」という発想が必要かもしれないのです》

 地方の再生のためには、効率だけではなく、不便さを温存する仕組みを考えたほうがいい。
 橋本治は一九八〇年代半ばごろから、高層ビルの乱立を批判していた。
 新居関所史料館を出たあと、新居町駅の一駅隣の弁天島駅まで電車で行き、舞坂のほうまで歩くつもりだったが、空がかげりはじめる。見るからに雨雲だ。風も強い。悪天候に抗っても何もいいことがない。
 中年の街道歩きは、想像以上に天候と健康に左右される。予定を変更し、とりあえず浜松まで行くことにする。
 新居~舞坂間は天気のいい日に歩きたい。浜松駅で興津行の電車に乗り換え、静岡駅で途中下車する予定(食事して喫茶店に寄ろうとおもっていた)だったのが、寝過ごしてしまう。
 気がついたら東静岡駅。浜松駅を出たあたりから、ほぼ寝ていた。
 そのまま電車に乗って十四時五十二分に清水駅で降りる。清水に来たのもはじめてだ。
 清水は東海道江尻宿。駅でちびまる子ちゃんランドのチラシを貰う。
 清水はさくらももこの出身地である。上京したさくらももこは最初に暮らしたのが、今わたしが住んでいる高円寺だった。高円寺に引っ越してきたとき、近所の飲み屋で「この近くにさくらももこが住んでいたんだよ」と教えてもらった。
「唄は茶切り節 男は次郎長」の茶切り節は静岡電鉄の宣伝歌として作られた新民謡。清水の歌といえば、「旅姿三人男」も有名だ。「清水港の名物は お茶の香りと男伊達」という歌詞だが、こちらは次郎長の子分の小政、大政、森の石松が唄われている。
 寒さはすこしやわらいだ。しかし強風。暴風といってもいい天候だ。
 清水駅前からグルメ通りを歩いて、レトロ喫茶羅比亜でピラフと珈琲を注文する。店のテレビで高校野球が流れていた。
 真砂町の駅前銀座を通る。たぶん旧東海道と重なっている。商店街系の街道は歩いていてワクワクする。でも清水の商店街は閉まっている店が多かった。
 十五時四十分、柳橋から巴川沿いの道を歩く。船高札という史跡があった。このあたりは江戸期には河川交通の要所だった。
 清水といえば、港である。
 糸川耀史著『東海道徒歩38日間ひとり旅』(小学館文庫)では港まで歩いて「西伊豆の土肥港行の『駿河湾フェリー』にふらふらと乗り込んでしまう」という一文がある。

《「乗物」に乗ってしまった。だが、船は例外なのだ、と勝手に決めた。船はステキだ》

 わたしも船が好きなので港に行くと意味もなく乗ってしまうことがある。今回は港のほうには行かなかったが、いつか清水港から伊豆半島に行くフェリーに乗りたい。そして下田街道を歩きたい。下田街道がどんなルートなのかはこれから勉強する。
 地図を見ていると、清水港からもっといろいろな町に行く船があってもいいようにおもえてくる。清水港と沼津港を結ぶ航路なんてどうだろう。
 巴川沿いの道は川のあいだに柵がないところがあって、強風にあおられて落っこちそうになる。この日は川の水量も多かったので、ちょっと怖かった。かつての巴川は大きく蛇行していたらしい。
 巴川橋を渡ると、橋の上で富士山の山頂の部分が見えた。
 そのあと江尻城跡に寄る。
 江尻城跡すぐ近くの魚町稲荷神社に行くと、日本少年サッカー発祥の碑という大きなサッカーボールの石碑があった。
 隣接する江尻小学校にサッカー好きの新任教師が赴任し、全国初の少年サッカーチームを結成した。その後、清水から数多くのサッカー選手が生まれた。
 再び商店街に戻り、東海道江尻宿の案内板、寺尾本陣跡の石碑などを見る。本陣跡は駐車場になっていた。
 十六時四十一分、清水駅から熱海駅行の電車に乗る。
 駅から富士山が大きく見えた。
 熱海には十七時四十三分、横浜駅には十九時十分着。ずっと電車に乗りっぱなしだったせいか、からだが怠くなったので相鉄ジョイナスのドトールでコーヒーを飲む。
 ここまで来れば一安心だ。家まで一時間もかからない。
 青春18きっぷ旅は、帰りがしんどい。電車の中で寝てばかりいた。歩く時間を確保するには、途中、どこで一泊したほうがよかった。後悔先にたたず。自由気ままな旅とはほど遠い状況だ。
 高円寺の駅から家までの帰り道、まっすぐ歩けないくらい足元がふらついていた。