第十六回 福山-矢掛-総社-姫路

  • 天文ガイド 2019年 10月号 [雑誌]
  • 『天文ガイド 2019年 10月号 [雑誌]』
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  • 歩く本―健康・体力づくりから街の遊歩術まで歩くことの効用・楽しみのすべて (エスカルゴ・ブックス)
  • 『歩く本―健康・体力づくりから街の遊歩術まで歩くことの効用・楽しみのすべて (エスカルゴ・ブックス)』
    伊藤 幸司
    日本実業出版社
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  • 石垣の花―随筆 (1967年)
  • 『石垣の花―随筆 (1967年)』
    木山 捷平
    現文社
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  • 日本の街道〈6〉夢誘う山陽山陰 (1981年)
  • 『日本の街道〈6〉夢誘う山陽山陰 (1981年)』
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  • 日本街道もの知り事典 (主婦と生活生活シリーズ 232)
  • 『日本街道もの知り事典 (主婦と生活生活シリーズ 232)』
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  • 街道と町並の旅―古い町並のある28の街道 (1982年) (別冊るるぶ愛蔵版〈13〉)
  • 『街道と町並の旅―古い町並のある28の街道 (1982年) (別冊るるぶ愛蔵版〈13〉)』
    日本交通公社出版事業局
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  • いずれ我が身も (中公文庫)
  • 『いずれ我が身も (中公文庫)』
    色川 武大
    中央公論新社
    823円(税込)
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 五月、仕事部屋の立退きが急に決まり、部屋探しと蔵書の整理に追われて、歩く時間を捻出できない。
 西部古書会館で伊藤幸司著『歩く本』(日本実業出版社)という新書サイズの本を買う。街道歩きをはじめてから、道や宿場町だけでなく、歩くことや靴にも興味が出てきた。「快適な歩きを確保するための、歩き始めのチェック事項」という項は勉強になった。

《新しい靴をはくときはもちろん、久し振りに長い距離を歩くようなときには、歩き始めの三〇分で一回休憩をとることが、とても大事です》

 靴と靴下をぬぎ、足の指と足裏をチェックする。足の裏のどこかに違和感をおぼえたら、マメ予防のため、救急絆創膏を貼るといいらしい。
 この本を読んでいるうちに、ふと山陽道を歩いてみたくなった。
 九州の太宰府と奈良・京都をつなぐ古代山陽道(太宰府道、筑紫道とも呼ばれていた)は歴史も古く、ものすごく重要な街道だ。
 わたしは井伏鱒二が好きなのだが、これまで広島県福山市にあるふくやま文学館に行ったことはなかった。
 そこで岡山在住の写真家の藤井豊さんに「福山と岡山の矢掛宿を歩きたい」とメールを送った。
 二十年くらい前、藤井さんは高円寺の近所に住んでいて(宅配便のセールスドライバーなどの仕事をしながら写真を撮っていた)、お互い、暇だったので、平日昼間よく中央線界隈を散歩した。彼は東日本大震災後、一ヶ月以上かけて青森から福島まで歩いて写真を撮っている(藤井豊写真集『僕、馬』りいぶる・とふん)。

 五月十八日、新幹線で新倉敷駅まで行き、JR山陽本線で鴨方駅へ。鴨方駅やその隣の里庄駅、その次の笠岡駅界隈は、大学時代のころから何度か訪れている(なぜか昔からわたしの友人は岡山出身者が多かった)。
 鴨方は日本最大級の天文台で有名な町でもある。わたしは小学生のころ、『天文ガイド』を定期購読するくらい天文少年で、岡山の天文台は憧れの場所だった。
 朝八時すぎに東京を出て、鴨方には十二時すぎに到着した。藤井さんと合流し、電車で福山を目指す。藤井さんは「福山だったら、鞆(とも)の浦や仙酔島も面白いですよ」と教えてくれたが、今回は寄る時間がない。仙酔島は名前が気にいった。
 鞆の浦は宮崎駿監督のアニメ『崖の上のポニョ』の舞台になったといわれる土地だそうだ。
 鴨方から福山までは電車で二十分ちょっと。福山駅のガード下のラーメン八十吉で麦トロ定食(ラーメン+麦トロ丼)を食べる。「ばらのまち 福山自転車マップ」を入手。
 駅から福山城公園沿いを歩いて七、八分でふくやま文学館に到着。井伏鱒二関係の展示が充実している。
 一八九八年広島県安那郡加茂村粟根生まれ。
 太平洋戦争末期、郷里に疎開。当時、岡山県の笠岡(小田郡新山村)にいた木山捷平、岡山県の吉備津に疎開していた藤原審爾らと「備後交友圏」を築いている。
「井伏鱒二 〈釣り文学〉への招待」「井伏鱒二と中・四国路」などの文学展パンフを購入する。
 ふくやま文学館のあと、蓮池公園を通って、福塩線の備後本庄駅に向かう。
 次の電車は十六時十五分。四十分くらいあったので、芦田川まで歩く。用水路が多い。細い路地を歩いた。藤井さんは岡山弁で「なんとかじゃろう」という。山手橋を渡り、芦田川グラウンドゴルフ場へ。
 芦田川の草戸千軒町遺跡はもうすこし河口に向かった法音寺橋の中洲にある。この遺跡は、寛文十三(一六七三)年の芦田川の大氾濫で水没した中世の市場......といわれてきたが、最新の研究では水没で消滅したことを否定する説もあるようだ。
 福塩線の神辺(かんなべ)駅で井原鉄道に乗り換える。江戸時代には神辺は山陽道と石州街道が交わる宿場町として栄えた。石州街道は銀の道とも呼ばれた(島根県の石見銀山とつながっている)。
「石見銀山の街道も歩きたいなあ」というと、「学生時代に歩きましたよ。寝袋持って。八日くらいかかったかなあ」と藤井さん。
 石見銀山から広島県の尾道や福山、それから岡山県の笠岡に至る銀の道があり、大阪に船で銀を運んだ。銀の道は石見路とも呼ばれ、戦国時代から江戸時代にかけて、街道沿いの宿場町や港町はすごく潤っていた。
 そんなにわか仕込みの街道知識を藤井さんに披露しているうちに電車が来る。井原鉄道は高架の鉄道で加速がすごい。ジェットコースターみたいだ。
 井原鉄道には早雲の里荏原駅という駅もある。
 北条早雲(伊勢宗瑞)のことは小田原を歩いたときにもすこし書いたが、わたしが高校生のころ――三十年くらい前は、元・伊勢国の素浪人から戦国大名に成り上がった「下克上のヒーロー」といわれていたが、現在は伊勢国出身説は否定され、備中伊勢氏説が有力となっている。
 ひょっとしたら岡山から関東に移動中に伊勢の素浪人と入れ替わったという説は......フィクションならありかも。
 早雲の里荏原駅の二駅先――矢掛宿のある矢掛駅には十七時すぎに着いた。駅のホームからの風が気持いい。藤井さんは「この向き(東)の風は雨が降る前の風じゃ」という。
 今のところ、空は晴れている。雨が降りそうなかんじはしない。二時間くらいは歩けるか。
 以前から矢掛宿のことは、岡山出身で同業の河田拓也さんからもよく聞いていた。河田さんは祖父が木山捷平と同級生だったらしい。
 木山捷平の『随筆 石垣の花』に「私のふるさと」という小文がある。

《山陽本線を汽車で通過された方はお気づきのことと思うが、倉敷と尾道の中ほどに笠岡という海岸駅がある。急行も全部はとまらないが、幾つかはとまっている筈である。そこが私のふるさとである》

 地図で見ると、木山捷平の郷里は、JRの笠岡駅よりも、井原線の小田駅のほうが近い。
 二〇一一年の夏、藤井さんの車で木山捷平の生家と墓を訪れたのだが、このときは山陽道や矢掛宿のことを知らず、「なぜ、こんなのどかな里山から、木山捷平のような文学者が生まれたのか」と不思議だった。
 岡山といえば、倉敷の美観地区が有名だが、矢掛宿も負けず劣らずというか、甲乙つけがたいというか、「山陽道を代表する宿場町」の風情と迫力があった。
 街道に関する資料は、大まかにいうと、東海道が六割、残りの江戸五街道(中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)が三割、その他の街道が一割くらいで、山陽道に関する本は少ない。
 ただし街道全般に関するムックでは、かならずといっていいくらい矢掛宿はとりあげられている。
 フリーペーパーの「矢掛町じゃらん」、「備中・矢掛散策ガイドマップ」をもらう。旧山陽道の矢掛宿には矢掛本陣石井家住宅、矢掛脇本陣髙草家住宅など、数少ない本陣も残っている。格子戸が鮮やかな妻入り五軒並びも見事。東西約八百メートルの町並には"うなぎの寝床"と呼ばれる短冊形の地割など、江戸期の建築がかなり残っている。カフェや食堂など、飲食店も充実していて、歩いているだけでワクワクする。来てよかった。
 西の端の栄橋あたりまで歩き、高通川徒渡し跡を見て町の駅のほうに引き返す。栄橋は星田川と小田川の分岐点にかかっている。
 藤井さんがおすすめのぼっこう堂というせんべいの専門店でピーナッツ味とごまのせんべいを買う。うまい。
 大国屋でお好み焼きとビール。店を出ると雨が降っている。「いうた通りじゃろう」と藤井さん。雨宿りをかねて、矢掛屋温浴別館で風呂に入る。
 アルバイト募集の貼り紙があったので藤井さんに教える。
「ええなあ、ここで働こうかな」
 しかしよく見ると女性限定の募集だった。
 風呂に入る前、藤井さんは妻に車で迎えに来てもらうよう電話してくれた。
 矢掛から藤井さんの家のある鴨方は電車だと倉敷方面まで出る必要があり、かなり遠回りになる(五十分くらい)。車だと二十分だという。
 迎えが来るまでのあいだ、木山捷平の通っていた矢掛高等学校(当時は矢掛中学校)に寄ったり、小田川にかかる弦橋も渡ったりした。
 毎年十一月には矢掛宿の宿場まつりがあり、大名行列などの行事も見られる。
 山陽道の岡山周辺の地図を見ていると、海沿いではなく、すこし内陸部を通っている。これは小田川沿いが平野だったからだ。
 この日は藤井家に宿泊。家の本棚から『日本の街道6 夢誘う山陽山陰』(集英社)を持ってきてくれた(わたしもこのシリーズは全巻揃えている。写真、図版が充実)。
 この本を読んで、岡山城下と下津井港を結ぶ金毘羅往来という街道があることを知った。
 岡山方面から金毘羅参りをする人は下津井港から船で丸亀に渡った。むしょうに下津井港に行きたくなる。
 藤井さんは、山陽道だったら、岡山と兵庫の県境付近にある三石宿(岡山県備前市)も見といたほうがいい」と教えてもらう。
 山陽道は古代と近世でルートが変わっているのだが、名前すら知らない宿場町がたくさんある。

 十九日、朝七時から藤井さんが運転する軽トラに乗り、鴨方周辺を案内してもらう。近所に旧鴨方往来という旧街道があり、かもがた町家公園に寄る。江戸に百八十二里という道標がある。道幅も含め、旧街道らしい旧街道だ。
 江戸中期の儒学者、西山拙斎もこの地の生まれで、その墓碑もあった。
 藤井さんに「どこに行きたいか」と聞かれたので「総社の五重塔が見たい」と答える。途中の道のりは藤井さんの好きなコースを通ってもらった。午後から別件で姫路に行く用事がある。
 鴨方からまず備中猿掛城跡に向かう。福頼神社の近くに車を止め、すこし歩く。いい眺めだ。小田川は見ていて飽きない川だ。
 川沿いに紫色の花がたくさん咲いている。「たぶん、カラスノエンドウじゃろう」と藤井さん。さらに真顔で「富良野みたいじゃろう」といわれるが、心の中で「富良野みたいではない(行ったことないけど)」とおもった。
 東京に帰って数日後、藤井さんから「あのとき、カラスノエンドウといったけど、紫の花はナヨクサフジかもしれない」とメールが届いた。
「猿掛城址登山略図」というマップを入手する。猿掛城は中世以来の山城で源平合戦のあと、一二〇五年ごろ、築城された。
 猿掛城のすぐ近くに吉備真備公園もある。
 吉備真備(六九五~七七五)も岡山の人だ。奈良時代の霊亀二年(七一六年)に遣唐使として中国に渡り、日本に囲碁を伝えた人物としても知られている。
 二〇一八年七月の西日本豪雨で大きな被害のあった倉敷市真備町も吉備真備の名にちなんだ地名だ。
 東京に帰ってきてしばらくしてから刊行された藤沢衛彦著『日本の伝説 山陽・山陰』(河出書房新社)を読むと、吉備真備には「真備伝説」といわれる伝説がたくさん残っていることを知る。
 唐に渡った吉備真備は、唐の官人で名人の玄東と碁の勝負をした。真備は碁を知らない。だいたいのルールを教えられた真備が盤に向かう。素人碁のはずが、勝負の中盤、真備は名人を一目負けのところまで追い込んでしまう。さすがに碁を多少でも知っていたら、ありえない話だが、そうした伝説が残るくらいの天才だったことはまちがいない。
 そのあと真備町にも連れていってもらい、小田川にかかる宮田橋を渡る。メモには「タケノコ」と書いてあるのだが、しばらく何のことか思い出せなかった。橋の欄干がタケノコの形をしていたのだ。
 小田川と高梁川が合流するところに寄り、JR伯備線の清音駅から山陽道の川辺宿のあたりを車で通ってもらう。川辺宿界隈は、横溝正史が疎開していた地域だそうだ。
 真備町の川辺地区も堤防決壊による被災地だった。
 真備から総社へ。わたしが藤井さんに「総社の五重塔が見たい」とリクエストしたのは、小野博著『日本の本日』(o rangoro)を読んだからだ。
 小野さんは一九七一年岡山生まれの写真家。現在はアムステルダム在住。『日本の本日』は二〇一七年十二月に刊行されたのだが、ここ数年で読んだエッセイ集ではいちばんのお気に入りだ。

《僕の生まれた岡山の村は、ナウシカの「風の谷」のようなところだった》

 その村には五重塔があり、景観保護条例により、周辺には古い町並が残っているという。山陽道沿いの清音村(現・総社市)のあたりだろうか。
「岡山/五重塔」を調べると、備中国分寺五重塔という塔があることがわかった。五重塔自体は江戸後期に作られたようだ。
 車を停めて吉備路をすこし歩く。旧街道はゆるやかにカーブしている。藤井さん、写真を撮る。古い建物も多く、石組も面白い。「風土記の里」という看板が見える。
 郷里の三重の街道を歩いているときにもよくおもうことだが、東日本より西日本の街道のほうが歴史の幅が大きい。
 備中国分寺のあたりは、奈良時代の岡山の中心地だった。それより前は大和朝廷と対立していた土地でもある。
 酒造資料館を眺め、藤井さんが前から行ってみたかったというまほろば珈琲店でモーニング。コーヒーのおかわりもできる。このあたりは周辺には造山古墳をはじめ、古墳がたくさんある。
 児玉幸多監修『日本の街道もの知り事典』(主婦と生活社)の「古代国家が最重視した幹線道路」の項を読むと、山陽道は、古代の官道七道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)の中で「もっとも交通量が多かっただけでなく、外国使節もここを往来」したとある。
 以前、北品川の街道文庫さんで買った『別冊るるぶ愛蔵版 街道と町並の旅』に「吉備津から総社へ 吉備街道」という頁がある。
 総社市周辺は、季候が温暖で土地も肥沃だったことから、有史以前から多くの集落があったようだ。吉備路には、大和朝廷の天皇陵に匹敵する巨大古墳が点在していることもこの冊子で知った。
 藤井さんには吉備線(桃太郎線)の足守駅まで送ってもらった。近くには足守川が流れている。
 足守駅のあたりは中国五県にまたがる中国自然歩道も通っている。全国各地の自然歩道のことも気になっているのだが、これ以上、関心領域を広げすぎると収拾がつかなくなるので今はブレーキを踏んでいる。
 黒田官兵衛の水攻めで有名な備中高松城もこの近くだ。
 吉備線は各駅停車したいくらい電車の窓からの景色が素晴らしい。備前一宮駅付近には環状列石などの遺跡があり、「吉備の中山みち」という街道も通っている。

 岡山駅には十一時着。駅西口の金券ショップ(の自販機)で姫路駅までの新幹線の自由席の切符を買う。のぞみではなく、ひかりに乗る。
 色川武大著『いずれ我が身も』(中公文庫)の「私に日本三景」というエッセイで「新幹線岡山駅手前の山村」を三景のひとつに入れている。

《桃太郎の出身地らしい日本の山村の好ましき姿。老いたらこのあたりに住みたい》

 このあたりがどのあたりなのかはわからないが、たぶん旧山陽道沿いの山村だろう。
 相生駅でのぞみ二本に抜かれる。十二時一分、姫路着。午前中からあちこち移動したせいか、足がすこしふらつく。姫路駅周辺の地図には書写街道(お城の南)、野里街道(お城の東)があったが、商店街を歩いたので今回は寄れなかった。姫路は広い。半日ではまわりきれない。駅から姫路城までもけっこう遠い。
 前に姫路を歩いたのは阪神・淡路大震災の翌年の五月か六月――。
 二十三年ぶりの姫路はまったく印象がちがった。アーケード街に若い人がいっぱいいて、外国からの観光客も目立つ。知っているつもりが、知らない町になっていた。

 この日、姫路文学館の望景亭で世田谷ピンポンズさんの「文学とフォーク」という演奏会(おひさまゆうびん舎主催)がある。
 世田谷ピンポンズさんは群馬県の前橋文学館などでもライブをしている。
 望景亭のライブで世田谷ピンポンズさんは、木山捷平の「船場川」という詩に曲をつけた歌をうたった。
 矢掛中学校を卒業後、姫路師範学校(後の神戸大学)二部に入学。船場川は姫路市内を流れる川。家に帰って地図を見たら、わたしは知らずに姫路駅から姫路文学館に行く途中に歩いた「千姫の小径」が船場川沿いの道だった。
 ライブでは姫路にある老舗の喫茶店・茶房大陸の歌(「大陸」)も歌っていた。帰り道、茶房大陸でコーヒーを飲み、焼きミートスパとコーヒーを食べた。
 姫路も山陽道の宿場町である。山陰道と山陽道を結ぶ出雲街道の分岐点の町でもあった。
 山陽道とそこから分岐する脇街道も無数にある。さらにその先には九州もある。日本海側も行ってない場所が残っている。時間がいくらあっても足りない。
 せめて本陣や脇本陣が現存する宿場町だけでもまわりたい。
 姫路から東京に帰る電車の中で、せっかく岡山に行ったのにばら寿司(わたしの大好物)を食いそこねたことに気づいた。
 また行けばいいか。