6月23日(月)北方謙三『黄昏のために』
週末介護23週目も無事終え、東武伊勢崎線武里駅から出社。
介護ボケでぼんやりしていると京都新聞と上毛新聞の広告部の人たちがやってきてしばし雑談。
昼、F出版社のHさんからランチのお誘いがあり、「げんぱち」へ。しばし情報交換。
午後、坪内祐三さんの『日記から』の刊行に合わせて、日記本フェアを開催される紀伊國屋書店笹塚店さんにパネルを持っていく。
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北方謙三『黄昏のために』(文藝春秋)読了。
還暦を過ぎたあたりの画家を主人公とした短編集。確か以前も画家を主人公にした作品があった気がするけど(北上次郎さんが絶賛していた)あれはなんだったか。しかしその主人公とは違う画家だ(と思う)。画家を主人公にするのは北方さん自身を投影しやすいからなんだろうか。
それはさておき、令和のこの時代になっても、北方謙三の主人公は、バーで隣り合った女性とねんごろになったり、モデルの女とベッドを共にし、葉巻を吸って、美味いメシを食って、キザな言葉で会話しているのだった。
私だって若い頃、北方謙三の小説を読んでそうなりたいと願い、そうなれるもんだと思っていた。しかし現実には50歳を過ぎても、バーに行って何を頼んでいいかわからず、そもそもバーなんて大竹聡さんに連れられていく以外いくこともないし、女性との会話なんて仕事と妻と娘と介護してる母親しかなく、かっこいい言葉を吐いたら自分で笑っちゃうくらいなのだ。
それなのに読むのがやめられないのだった。私がたどり着いた現実を考えたらふざけんなこの野郎と投げ捨ててもいいはずなのに、ページをめぐる手が止まらないのだ。
なんでなんだろうと考えたら、さみしさは一緒だった。北方謙三が書き続ける主人公のさみしさと私は、かつてと寸分違わず、ずっと一緒なのだった。さみしいんだ、人間は。ひとりなんだよ、人間は。
北方謙三の小説は決して肩を抱えて慰めてくれるような小説ではない。ひとりでいる私をただ見つめてくれる。
それがハードボイルドということなら、私はやっぱりハードボイルドが好きだし、必要としているのだった。