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9月27日(金)茶木則雄さん

 茶木則雄さんの訃報が届く。

「なあ、杉江。メールにハートマークがあったら俺に気があるよな。それも3つだぜ」

 営業に行ったところ「お茶飲もう」と誘われ、船橋のときわ書房さんの並びのケーキ屋だか洋食屋だか喫茶店に入ると、茶木さんはタバコを取り出しライターで火をつけ、携帯を見せながら話し始めた。

「そんなわけないじゃん!」と思ったけれど、とてもうれしそうに話す茶木さんの姿を見たら否定することもできなかった。

 たしかそのあとハートマークを信じてアタックしたら、こっぴどく振られたんではなかったか。そのとき、茶木さんは40代後半であった。

 茶木さんのことを「ろくでなしだけれど、人でなしではない」と言ったのは、ときわ書房の弟子である宇田川さんだったか。私はその言葉を聞いて、「まさしく!」と膝を叩いてしまった。

 茶木さんは仕事をサボって競馬場にいたりするろくでなしだったけれど、人間としてはしごく真っ当な人だった。特に本に対する時は、とても真摯で熱い人だった。私はもうひとり同じような人を知っているけれど、その人の名は目黒考二という。二人はとても仲が良かった。

 私が本の雑誌社に入社したのは、1997年10月15日だった。

 茶木さんの著作である『帰りたくない!』の初版発行日は、1997年10月25日だ。

 本の雑誌社に入社して初めて営業した本が茶木さんの『帰りたくない!』であり、入社して数週間後に市ヶ谷のアルカディアで開かれた「茶木則雄の出版と新たな門出を祝う会」では、何もわからず受付に立っていた。

 そう、私は「本の雑誌」を読んでおらずに本の雑誌社に入社した人間なので茶木さんの存在を知らなかったし、その受付の向こうで開かれていたダブルシンポ(真保裕一さんと新保博久さん)による漫談(挨拶)もその価値がわかっていなかった。

 私が本の雑誌社に入った時には、茶木さんはすでに深夜プラス1を辞めており、深夜プラス1は、茶木さんから引き継いだ浅沼茂さんが店を取り仕切っていた。

 余談になるけれど、この浅沼さんも人柄の大変良い人で、私はたくさん面倒をみてもらった。浅沼さんを中心に版元で集まってよく酒を飲んだのだが、そこで出会ったのが、のちに本屋大賞を一緒にやることになる日販(当時)の古幡さんで、古幡さんも私も、浅沼さんの口癖である「面白い本は独り占めしちゃダメ!」という言葉を礎にして、本屋大賞を運営しているのだった。

 さて、茶木さんである。あまり接点のないまま過ごしていたのだけれど、いつだったか書店員として復帰したという連絡があり、私は船橋のときわ書房さんに馳せ参じたのだった。

 それから私は書店員・茶木則雄の凄さを知ることになる。読んでつまらなかったら返金保証とか深夜のサイン会とか(この辺りは深夜プラス1ですでにやっていた)常識を覆す販促を次から次へと産み出していくアイデアマンだった。おそらく今店頭でやっているほとんどの販促方法は茶木さんが編み出したのではなかろうか。そう思えるくらいいろんなことをやっていた。

 もちろんそれらはしっかり品揃えされた棚や平台があってこそなのだが、一冊でも多く本を売りたい、あるいはこんな面白い本が出ているのに放っておけない!という想いが溢れていた。ちなみに私はもうひとり同じような人を知っているけれど、その人の名は目黒考二という。しつこいようだが、二人はとても仲が良かった。

 そうして茶木さんが書店員に復帰した時代に、本屋大賞を作る話が湧き起こるのだから、やはり本の神様というのはいるのかもしれない。

 茶木さんの本屋大賞創設に関わる功績は以前別のところで書いたのでここでは記さない。

 ただ茶木さんが本屋大賞を離れたとき、「杉江と喧嘩した」という噂が一部で流れていたらしい。

 事前情報の取り扱いで、私が茶木さんを怒ったのは事実だけれど、喧嘩なんてまったくしていない。

 なぜなら私はろくでなしの茶木さんが大好きだったからだ。

 だんだんあっちの方が楽しそうに思えてくる。しかしそんなことを考えていると本当に死に引きずりこまれてしまうので、考えないようにしようと思う。

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