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5月26日(月)直納の自己満足

昨日、売れているので在庫状況を見て明日電話するとメッセージのあった書店さんから、朝イチで『断捨離血風録』と『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』を20冊ずつ注文をいただく。こうなることを見通して大きなリュックで出社したのだった。

そんなところへ別の書店さんから今度は10冊ずつの注文が入り、都合60冊=20キログラムの本を直納することとなる。

ところがその準備をしているとさらに別の書店さんから30冊の注文が入り、こちらはルートが異なるため、昼食を抜いてお届けすることにする。

直納というのはあくまで私の自己満足であるのだけれど、この日持って行った2軒の本屋さんでは、まさに平積みの本が残り1冊という売り切れ間近の状態で、仕入れの方やお店の方から大変有り難がられる。

さらに「せっかくもってきてくださったのでいい場所に展開しますよ!」とお店の入り口付近の棚にそのスペースを作って待ってくださったりと直納冥利につきるのだった。

直納といえば、目黒さんは『本の雑誌風雲録』のあとがきで、「実は今年になって腰痛に悩まされるようになってしまった。自分は若いつもりでいたが、体はガタがき始めているのかもしれない。考えてもいなかった。ずっと配本部隊の先頭に立っていくつもりでいたが、いくらそう考えても体がいうことをきかなくなることもあったのだ」と書いている。

『本の雑誌風雲録』は1985年の刊行だから、目黒さんはこのとき39歳だ。

「やがては若い社員たちにまかせるようになってしまうのだろうか」と寂しいことを書いているのだけれど、おそらくこの数年後に目黒さんは直納部隊を引退し、編集に専念したのではなかろうか。

私は現在53歳。腰痛も肩こりもなく、時折痛風の発作に襲われるけれど、ふくらはぎはパンパンだ。だから日々注文があれば直納に向かう。重い荷物を背負って、電車を乗り継ぎ、本屋さんに向かう。

いつもそのとき、心の中で叫んでいる。

「目黒さん! 今日も俺、まだ本を運んでますよ!」

5月25日(日)神保町ブックフリマ2日目

神保町ブックフリマ2日目。2日目にも関わらず、今年から始めたスタンプラリーのおかげもあって、終了間際というか営業時間を終えてもお客さんが途絶えることがなく盛況に終わる。

コロナ禍に神保町ブックフェスティバルが休止となり、それも寂しいよねということで白水社の小林さんとゲリラ的に始めたブックフリマなのだけれど、すっかり定着してうれしいかぎり。

しかしほんとイベントだとこんなに本が売れるわけで、これを日常で本を買う状態にするか、日常をイベント化するか考えなければならない。

5月24日(土)神保町ブックフリマ1日目

今日明日と神保町ブックフリマがあるので、先週に引き続き週末実家介護はお休みとなり、母親は介護施設に預けっぱなしになるのであった。来週末の帰宅まで、母親は21日間家に帰れないわけである。

そんな日数を母親は覚えていないだろうけれど、私の胸中にはバケツに絵の具のついた筆を沈めたときのように後悔が滲む。

朝ラン7キロ後、8時に出社し、会社をお店に変えていると、10時過ぎにはぞくぞくとお客さんがやってくる。

相当勇気を振り絞らないと扉を開けることもできない薄暗い雑居ビルにも関わらず、「店」と名乗った瞬間にこうして人がやってくるのが不思議だ。これが個人の家だったり会社だったりしたら、アポもなしに訪れることはないだろう。「店」というものの特異性を思い知り、そして楽しくなる。

5月23日(金)13連勤!?

6キロラン。9時半出社。

午前中、明日より開催される神保町ブックフリマの準備に勤しむ。職場をお店にするにはまず片付けをしなければならず、乱雑に積まれた本やら謎の書類やらを動かすのに苦労する。

午後、丸善丸の内本店さんに『断捨離血風録』と『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』を直納へ。幸先良いスタート。

夜、往来堂書店さんにて大竹聡さんと森まゆみさんのトークイベント『ずっと記憶にとどめたい いい町、いい店、忘れえぬ人。』の立ち会い。おかげさまで満員御礼。ありがたいかぎり。

今週は妙に疲れているなと思ったら、日曜日もイベントだったから一日多く働いているのだった。それどころか明日も明後日も仕事で、気づけば13連勤になっているではないか。

5月22日(木)本を売る襷

7キロラン。10時出社。

午前中、メールの返信などをして、本日から吉祥寺のgallery feveにて始まった近藤篤さんの写真展「写真とTシャツとコンドウくん。」に向かう。

近藤さんは私が最も憧れている人で、スタジアムはもちろんあちこちでお会いしているのだけれど、いまだに会う前には喉が渇き、ドキドキしてしまうのだった。何も緊張するような人柄ではなく、驚くほどフランクで、今日も「スギエちゃん!」と声をかけてくださったのだが、やはり私にとって「神」であり、「推し」そのものなのである。

今回並べられた写真は近藤さんの初期作品が多く、『ボールの周辺』に掲載された伝説的な写真を食い入るように眺める。またそれをプリントしたTシャツもたまらなくかっこいいのであった。

写真とTシャツを購入し、ギャラリーを出たところで、事務の浜田から「書店さんから追加注文が届いているが、直納するか」という確認のメールが届く。

新刊搬入とともに注文をいただけたということは、それはいわゆる書店員さんが新刊を開け実物を見たらぴぴぴっと来て、これは売れると判断してくれたということだ。ならば直納するのが必須である。なぜなら売る気持ちがそこにあるならば、それが冷める前に本を届けるのが営業の仕事であるからだ。

というわけで急遽会社に戻り、書店さんに直納に伺う。

その夜、Xを検索していると、なんと直納した書店さんが売り場の写真とともに投稿してくださっていた。仕入れに納品しただけで、お忙しいだろうから売り場には挨拶せずに帰ったのだけれど、こうして本を売る襷がしっかり繋がっているのを実感し、涙があふれてくる。

こういう書店員さんがいる限り、安心して本を作っていける。

5月21日(水)深夜11時の吉野家

FC東京に勝った翌朝、洗面所で息子と顔を合わせると、「おれ、等々力の川崎戦のチケット買っちゃった」と笑った。

この春から働き出した息子は、埼玉スタジアムの試合はもちろんのこと関東のアウェイや新潟などまでも応援に駆けつけ、すっかり私以上のサポーター生活を満喫しているのだった。

お金に余裕ができたというのもあるけれど、中学校の同級生たちもすっかりレッズサポーターになっていて、彼らと車に乗って遠征するのが楽しいようだ。

「ようだ」なんて他人事のように書くのはおかしい。私だって20年ほど前は、観戦仲間の車で新潟や仙台に応援にいき、そこで起きた数々のエピソードは、おそらく人生の最後に振り返る大切な思い出になっているのだ。

いつもは20人ほどで応援しているのだが、息子がチケットを買った等々力の川崎戦は、みんな都合が悪く息子だけが出欠ボードが⚪︎になっていた。私も午後に著者との同行取材が入っていたので、DAZNで応援するつもりだった。

「等々力って、どの駅で降りるの? ゴール裏ってどんな感じ? いつもどの辺で観てた?」

これまで等々力を一度も訪れたことのない息子が、歯ブラシをくわえながら訊いてくる。

すでに20歳も過ぎているし、スマホで検索すればたどりつくだろう。

しかし初めてのスタジアム、初めてのスタジアムのゴール裏。何時頃行けばいいのか、どこに並ぶのか、そしてどこが中心になるのか、考え出したらわからないことだらけで、不安になるはずだ。

息子と並んで歯を磨きながら考える。

一人より二人。その二人が父親だったら、息子の不安は解消するだろう。不安がなければ100パーセント浦和レッズを勝たせるためにエネルギーを使える。そして一人でも多くのサポーターがアウェイに駆けつけば、チームの力になる。その日の朝、仕事に向かう電車の中で、私はチケットを購入した。

試合当日の今日、息子と待ち合わせし、等々力スタジアムに駆けつける。
試合はロスタイム、ラストワンプレーの大久保智明の劇的ゴールで2対2の同点に終わった。

帰り道、「腹が減った」と口をあける息子と自宅近くの吉野家に飛び込んだ。夜の11時過ぎに吉野家に入るのはいつ以来だろうか。息子はねぎ塩から揚げ丼の大盛り、私は牛丼の並を頼んだ。

私はおそらく死ぬ前に、この吉野家の空気を思い出すだろう。

5月20日(火)審査官

朝ラン6キロ。9時半出社。

午前中、デスクワーク。

午後からとあるオンライン面談に参加。なかなか重要な役割を担っており緊張する。3時間。くたくたのヘトヘト。

それにしてもオンライン画面に映る自分の顔があまりに真っ黒に日焼けしており、まるで日サロに通っているか、ゴルフに勤しんでいるようで猛烈に怪しい。

夜、ジュンク堂書店池袋本店さんに伺い、イベントの打ち合わせ。その後、やきとんみつぼにて酒。酒好きの間ではとっても有名なお店なのだけれど、入ったのは初めて。その美味しさと安さに感激する。

5月19日(月)干瓢巻き

朝ラン7キロ。10時出社。

昼、高田馬場の芳林堂書店さんに『断捨離血風録』のサイン本を納品に伺う。

古書現世の向井さんに教わったさかえ通りにある「とんかつ いちよし」にて、ロースカツ定食(ご飯半分)を食し、パワーを補給する。最近、串カツに目覚めたので(玉ねぎが食べられるようになった!?)、次はミックス定食(串カツ、あじフライ、いかフライ)を食べることを誓う。

午後、高野秀行さんが来社され、『酒を主食とする人々』のサイン本を作っていただく。これで都合1300冊のサインをしていただいたことに。嫌な顔もせず、サインやらイベントやらと販促にたいへんご協力いただき感謝以外ない。

夜、都内某所にて、高野さんがゲスト出演するYouTube「雨宮処凛のせんべろ酒場」の収録に立ち会う。収録後、回らないお寿司屋さんで打ち上げ。干瓢巻きを食す。終電2本前で帰宅。

5月18日(日)50周年イベント

朝9時会社に出社し、『断捨離血風録』と『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』70冊を持ち背負い、雑司が谷地域文化創造館に向かう。

本日は、古書現世の向井さんプロデュースによる本の雑誌50周年記念で、日下三蔵さん、小山力也さん、盛林堂書房の小野純一さんによる「劇的⁉︎魔窟ビフォーアフター」と、大森望さんと吉田伸子さんによる「目黒考二と目黒さんの書評は永遠に不滅なのだ。」のWトークイベントを開催するのだった。

両イベントとも満員御礼で、ありがたい限り。打ち上げは新宿三丁目に移動し、池林房で乾杯。

5月17日(土)ぼくの浦和レッズ・ライフ

明日、50周年イベントがあるため、今週は母親には介護施設にいてもらい、週末実家介護はお休み。

雨降る中、埼玉スタジアムへ向かう。

5月6日のガンバ大阪戦同様、ポンチョを着て自転車漕いでスタジアムに行き、屋根のない下で濡れになりながら応援し、自転車漕いで家に帰るという、ダイパもコスパもまったくない一日なのだけれど、先制され、追いついて、さらに引き離されたところに追いつき、そしてロスタイムに逆転ゴールを決めるという、スパチャが許されるなら2万円でも3万円でも支払いたくなるエンターテイメントとして最高の試合であった。

こういうことがあるからサッカー観戦、すなわちクラブを愛することがやめられないのだ。

サポーターの心情を描いた最高の名著、ニック・ホーンビィの『ぼくのプレミア・ライフ』(新潮文庫)では、「いつまでも記憶に残る試合。帰り道、満足感に心を震わせられる試合。そんな試合の必要条件」として

(1)ゴール:多ければ多いほどいい。(中略)ぼくはホームでの三対二の勝利に固執する。
(2)とんでもなくひどいミスジャッジ
(3)観衆の大歓声
(4)雨、もしくはすべりやすい芝など
(5)敵のペナルティ・ミス
(6)敵チームのメンバーに出されるレッド・カード
(7)ある種の「屈辱的事件」

の7つの条件が挙げているのだが、本日の試合はほとんど当てはまる内容だった。唯一、(5)(6)が欠けているのだけれど、それは浦和のゴール3回に、4度のVARが入り、そのすべてがゴール判定だったことで補って余りある興奮を生み出したのである。

それにしてもサッカーというのは恐ろしい。

どこでいつこれだけの興奮の試合が起きるか皆目見当つかず、だからこそ、すべての試合を観に行きたくなるのだ。

5月16日(金)編集者の想い

  • 川は流れる
  • 『川は流れる』
    森 詠
    小学館
    2,750円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HMV&BOOKS

5時半起床、6時からランニング6キロ。汗をかき、昨日の疲労が取れる。

9時半出社。明後日のイベントでつかう名札やポスターを作る。

12時に版元営業の人と待ち合わせし、ALEGRIA Jimbochoで腹がいっぱいになるまでシュラスコを頬張る。こんなお店があったなんて知らなかった。これから贔屓にしようと思う。

会社に戻ると小学館の編集者が来社され、今月末に刊行される森詠『川は流れる』を目黒さんに読んで欲しかったんですよと激推しされる。

そういえば先日面識のない編集の人からゲラが送られてきて、そこには「どうしたらこの面白い本を読者に届けることができるのか悩み」と手紙が記されていた。

編集者のこうした想いをうまく届ける方法はないのだろうか──。

5月15日(木)U字型の棚

午後、ジュンク堂書店池袋本店さんに行き、6月開催のイベントの打ち合わせ。

打ち合わせの後、店内を回って本を購入す。一階の、なんという名称のコーナーなのかわからないのだけれど、U字方の向かい合わせになっている棚が大好きなのだった。

特に外側の、新刊を2点ずつ組み合わせ面陳されているところは、まるで東京堂書店の軍艦棚のごとく全ジャンル大部数小部数に関わらず面白そうな本が並べられており、その便利さと取り合わせの妙において発見が非常に多い棚なのだった。

本日はそこから

稲田俊輔『食の本 ある料理人の読書録』(集英社新書)
関根谷実里『世界のお弁当とソトごはん』(三才ブックス)
山本高樹 文・写真『雪豹の大地』(雷鳥社)

を購入する。

夜、本屋大賞の反省会。最も反省すべき点が発表会で作家さんのいる場所を示す風船がヘリウムガスの漏れでうまく上がらなかったところという、しごく平和な内容で今年も事なき終えたことに胸を撫で下ろす。

その後、ほぼ終電まで酒を飲み、午前様で帰宅。

5月14日(水)カバラボ

企画会議。大きな企画を動かす。書籍の企画は10本ほど提出。

午後、BOOKS青いカバさんに「本の雑誌」6月号を納品する。

その後、舎人ライナーに乗って、BOOKS青いカバさんが熊野前のはっぴいもーる熊野前商店街にオープンされた「カバラボ」を覗いてみる。こちらは店内の古本はすべて100円均一になっており、店内にはすでに3人のお客さんがおり、繁盛の様子。

店主もおらずお会計はどうするのかと思ったら、小さな券売機が設置されており、「1冊100円」「2冊200円」「7冊700円」と記されたボタンを押して、精算するのだった。とかくキャッシュレス決済に向かう世の中のなかで、これは素晴らしいアイディアだ。

5月13日(火)300冊

午前中、『断捨離血風録』と『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』の見本を持って、市ヶ谷の地方小出版流通センターさんを訪れる。気温が上がり、すっかり夏。

1時に日下三蔵さんと小山力也さんが来社され、サイン本作成。本の中の準主役でもある盛林堂書房さんでもサイン本の予約受付しておりそちらの分は3人連名でのサインとなるため、お二人には都合300冊のサインをお願いする。雑談しながら2時間ほどで無事サイン終了す。

5月12日(月)ノイズ

「本の雑誌」6月号搬入。

今月の新刊『断捨離血風録』と『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』の初回注文〆作業。2点同日搬入なので、データ登録に間違いがないよういつも以上に集中する。

夜、松戸の名居酒屋「ひよし」にて、スーパーブックス竹ノ塚駅前店さんと書房すみよし武蔵中原さんで開催されるフェアの商品発表会に参加。書店員さんを囲んで10社を超える版元営業が集まり、大いに盛り上がる。

飲み会の会話というのは、特に酔えば酔うほどノイズなんだけれど、ノイズというのはそれすなわち刺激なのだった。ノイズだから、時には耳の痛い話もあるのけれど、その耳の痛さが次なる仕事の原動力になったりするし、思いもしない有益な情報も転がっているのだった。

5月11日(日)お相撲

介護の間、相撲が始まるとほっとする。私も母親も好きというほどでもないのだけれど、相撲も見ていると間が持つのだ。

力士がゆっくり土俵にあがり、立ち合いを合わせ、塩をまき、どーんとぶち当たる。どっちが勝ってもなんだかうれしくて、ピクニックのような観客席をつい注目してしまう。相撲がなかったらこの一年の間に私は狂っていただろう。

相撲は一度、国技館に観に行った。父親が一生に一度生で観てみたいというので、枡席を取って、父親と母親と三人で両国に行ったのだった。

チケットの取り方を坪内祐三さんに乞うたら、チケットの取り方だけでなく、国技館で何時にどこにいるとお相撲さんに会えるとか、ここの弁当が美味いとか、相撲の楽しみ方を克明に記したFAXをいただいたのだった。

坪内さんの案内に従い、われわれ三人は相撲観戦を堪能し、帰りには錦糸町でつばめグリルのハンバーグを食べて帰った。

毎回お相撲が始まると母親はその日のことを思い出し、「お父さん、あの日喜んでいたよね」と話す。

5月10日(土)血圧計

朝、雨降る中、介護施設に母親を迎えにいく。昨年の一月から週末実家介護を始めているが、土曜日に雨が降ったのは二度目くらい。

ランニングにも行けず、スーパーに買い物にいく。別にケチることもないのに、妙にケチってしまうのが不思議だ。

在宅の定期診療に来たお医者さんが、お家に血圧計ありますか?と聞いてくる。ありますと言って差し出すとほっとした様子。なんと血圧計をどこかに忘れてきてしまったらしい。大変親しみがわく。

炎の営業日誌特別篇『本をはさんで 版元営業という人生』第1回 浅利清

本をはさんで 
版元営業という人生

はじめに

版元営業という仕事に就いて32年の年月が過ぎました。その期間すべて小さな出版社で働いてきたので、特に研修もないまま新刊チラシと注文書を持ってあたふたと本屋さんをまわる日々が始まりました。

そんな私に版元営業という仕事を教えてくれたのは、他の出版社の先輩たちでした。もちろん手取り足取り教えてくれるわけではなく、売り場で見かける背中や酒の席での振る舞いで教えてくれたのです。

時が過ぎ、改めて、そんな先輩たちに話を聞いてみたいと思いました。どんな風に本を売ってきたのか、そもそもどうして版元営業になったのか、そして版元営業という仕事はなんなのか──。いや本当は先輩たちからいろんな話を伺いたいだけなのです。

それが、この「本をはさんで 版元営業という人生」です。居なくても本はこの世に生まれ、またお客様に直接本を売るでもない版元営業という仕事を続けてきた大好きな人たちに話を伺って参ります。


第1回 浅利清

浅利さんと出会ったのは、確か山下書店渋谷店の店長さんを囲んでの飲み会だったと記憶します。

自分の父親とたいして変わらない年代にも関わらず、まだ書店さんとの飲み会に慣れていなかった私に優しく話しかけてくださいました。浅利さんの話は、営業ときいて思い浮かべるような押しの強いトークではありません。軽妙な語り口で落語や映画といった趣味の話をしながら、その場を明るく楽しくしてくれるのでした。飲み会をまたやりましょうといって、その店長が退職するまで続きました。

それ以来、飲み会だけでなく、営業先の書店でばったり会い、お茶を飲んだりしてきましたが、今回「版元営業という人生」として一番最初に話を聞いてみたいと思ったのが浅利さんでした。RCサクセションの曲に「ぼくの好きな先生」というのがありますが、浅利さんは「ぼくの好きな先輩」です。

すでに定年退職して、公民館などで文化事業の企画を立て、相変わらず忙しそうにしている中、相模大野のくまざわ書店さんで待ち合わせし、近くの喫茶店に向かいました。


── 何年生まれですか?

浅利 昭和二十二年。一九四七年ね。

── 昭和二十二年ということは今七十...。

浅利 七十七歳になってるかな。(二〇二四年十一月現在)

── ご出身は?

浅利 生まれは大井町。

── あっ、大井町なんですか。僕の母親も大井町で。

浅利 えっ、そうなんだ。あの頃の大井町って駅に馬券買いのおっさんが結構いてね。相乗りのタクシー乗ったり。「なにやってるのかなぁ」って思いながら見てました。

── そういう感じだったんですね。

浅利 羽田のそばには海苔の養殖場とかあってね。干してあるんだ。

── 天日干しってことですか?

浅利 そうそう。ガキの頃、俺はあの辺で泳いで遊んだもんですよ。

── 生まれも育ちも大井町だったんですか?

浅利 そう。親たちは舞鶴から移ってきて、それで俺は大井町で生まれたんだろうなって思ってるだけの話だけど。訊いたことがねぇんだよ、どこで生まれたかっていうのは。おそらくガキの頃から大井町にいるからさ。兄弟の中で俺だけが大井町なのかな。

── ということは上に兄弟がいらっしゃるんですか?

浅利 四人いたんだけど、みんな死んじゃったからね。

── それは子供の頃にとか?

浅利 いえいえ、一等上の兄貴は十年近く前かな。次の兄貴が十五年前ぐらいにね。

── はい。

浅利 で、お姉ちゃん、姉がいたんだけど、一昨年に亡くなって。小さい頃にひとつかふたつぐらいで亡くなったのもいたんだけど、俺は知らないからね。

── 浅利さんは海で遊ぶくらい活発な子だったんですか?

浅利 というか遊ぶところがないんですよ。だから今のお台場、あんなきれいになる前だけれど、ああいうところでみんな遊んでたんだよ。お台場で俺らは野球やったクチだから。

── 少年野球?

浅利 少年野球じゃない。遊びのね。棒っきれの。海ッ端で、遠浅だったからさ。そのあたりで野球をやってた。で、中学もすぐそばの東海中学っていうんだけど、その頃は学校出たら二〇〇メートルぐらいで海だったかな。今はもうとんでもないけどさ(笑)。

── 埋め立てられているってことですね。

浅利 そう。いい時代だったよ。

── 子供の頃は本を読んでいたんですか?

浅利 漫画ばっかり。貸本屋に行ってた。漫画の貸本屋があったんですよ。さいとう・たかをだとかちばてつやだとか影丸譲也だとか。あれはなんて本だったんだろうなあ。単行本みたいになっていて、それを借りてさ。一冊五円だったかな、あの当時。

── そうなんですか。

浅利 借りれるのが一晩か二晩か一週間だったのかな。もう忘れちゃったけど五円で借りて。『まぼろし探偵』に『イガグリくん』とか知らないだろうけど。

── 僕の子供の頃には貸本屋というのはもうなかったんですよ。

浅利 そうでしょう。俺は貸本の世代だから。

── 本を買うなんていうのは?

浅利 そういう感覚はなかったよね。買えるようになったのは、「少年サンデー」とか「少年マガジン」とかああいうのが出始めた頃かな。だから今思うよ。当時の漫画をとっておけばなって(笑)。とんでもない値段になっていたと思うけど、当時はそんなことわからないからさ。

── そういう子供がどういう経緯で出版営業の仕事に就いていったんですか? 元々出版社を目指していたんですか?

浅利 いやあ全然。中学校を卒業して。俺、中卒だから。

── あっ、そうなんですか。

浅利 実は中卒なんです。春陽堂に入ってから夜学の高校に通ったんですよ、4年間。

── じゃあ、働き出したのは15歳?

浅利 そうそう。昭和二十二年生まれ、団塊の世代っていうのはみんな貧乏だったから。

── 戦争が終わって、一番大変な頃ってことですかね。

浅利 停電が多かったから俺らが生まれたんじゃないの?(笑)

── えっ?(笑)

浅利 言うんだよ、みんなで冗談を。やることがなかったんだろうって(笑)。

── あはは。それじゃ中学を出て働きに出る同級生っていうのもいっぱいいらしたんですか?

浅利 いっぱいいたね。幼稚園も行けなかったから、小学校に行くのが楽しみでさ。給食が楽しみでね。

── お腹減ってますもんね。

浅利 そう。でね、中学を卒業するときに、いすゞを受けたんだよ、自動車の。

── はい。

浅利 兄貴がいすゞにいたんで俺も兄貴のアレで入れるかなと思って行ったら、ウチの兄貴は組合にいて。その当時は組合ってアレじゃない。昭和三十五、六年頃だからさ。

── 会社とバリバリ戦っていたわけですね。

浅利 兄貴は一生懸命やっていたから「あいつの弟が来た。とんでもないことになるんじゃないか」っていうので、俺はダメだったんだけど。

── 採用されなかった?

浅利 そうそう。それで中学校行って、「どこかいいところない?」って就職担当の先生に訊いてさ。それでいろいろ紙を渡されて、その中に「倉庫番」って書いてあったんですよ。

── 倉庫番?

浅利 それを見たら「春陽堂書店」って。当時の俺は聞いたこともなかった。ただ俺、「倉庫番」って。「あっ、こりゃいいや、楽できるな!」なんていうので受けたわけ。

── ええ? じゃあ出版業じゃくて、倉庫番っていう仕事に惹かれたってことですか?

浅利 そう! とにかく働かなきゃならなかったからね。

── 倉庫はどこにあったんですか?

浅利 中目黒。当時はけっこう売れてたみたいで。鉄道弘済会でね。当時は弘済会って言ってたキオスクを。

── はい。

浅利 弘済会への納品がすごい多かったんだよね。返品も多かったけど、結構ああいうところで売れてたんだね。山手樹一郎だとか時代劇とか、乱歩とか大衆本がね。

── その頃にはもう春陽文庫ってあったんですか?

浅利 あったね、俺が入る前から春陽文庫っていうのはあったよね。

── 大井町から中目黒までは、どうやって通っていたんですか?

浅利 それはもう大井町線で自由が丘まで行って、自由が丘から東横線の渋谷行き。だから千代田線ができる一年前ぐらいかな。

── 倉庫の仕事っていうのはどんな感じだったんですか。

浅利 何をやりゃいいんだろうって思ってたら、要するに本の品出しだよ。

── 注文短冊があったりとかですか?

浅利 今から思い出すと東・日販(トーハンと日販)の連中が売れたカード、補充カードを持ってきてたんだよね、会社に。それを俺らは補充として出してたの。

── はい。

浅利 当時は機械がなかったから荒縄で縛って。

── 本を?

浅利 そう。荒縄っていうか、もう少しいいのなんだけど、縄で縛って。それでトラックに来てもらって、神田村に持っていったの。

── そのトラックは運送業者がくるんですか?

浅利 そうそう。三共運送っていう。

── 三共さんが来るからそれまでにちゃんと荷造りしておかないといけないみたいな?

浅利 そうそうそう。まだ当然日販にしてもトーハンにしても今みたいな倉庫? 物流センターっていうの? ああいうのがなかった時代だから。

── じゃあ売れた本は出版社の倉庫から出ていくみたいな?

浅利 そういう感じだったね。当時トーハンが九段下にあったのかな。

── 九段下にあったんですか?

浅利 九段下。日販の今の場所は確か店売だったはずなんだよ。

── 御茶ノ水駅前の?

浅利 今、日販のビルがあるでしょ? あそこがね、まだ俺らのときは店売だったかな。もしあれだったら確かめてみて。

── はい。

浅利 俺の思い違いかも。もううすらとんかちになってるからね。

── はい(笑)。浅利さんが納品にいくわけではない?

浅利 いや、そのトラックに一緒に乗って。

── そうなんですか。

浅利 九段下行ったり、日販に行ったり、神田村行ったり、栗田なら栗田に下ろして。

── 栗田も神田にあったんですか?

浅利 神田にあった。

── そうなんですか。仕事としては大変なんですか?

浅利 いやあ。品出しとかああいうのは嫌いじゃなかったね、今から思うと。

── 何冊出して、みたいな?

浅利 棚ごとでこれはこれ、って入れればいいんだから。あと補充カードを入れて、三十冊くらいになれば縛るんだ。

── 先輩はいたんですか?

浅利 いたよ。五、六人はいたかな。

── みんな男の人ですか。

浅利 男、男。で、あとは検印貼りってわかる?

── わからない(笑)。

浅利 昔の本は全部はんこ押してあるでしょ。奥付のところに著者のはんこ。

── はい、押してありますね。

浅利 その検印の紙を作家先生のところに貰いに行くわけ。それで先生が、まあお女中さんか秘書が捺すのか知らないけど、千冊分とか捺してあるのをもらって、それで製本所から入ってきた本の後ろにいちいち、こうやって糊の付いてる札みたいな板があって、全部糊で貼っ付けて、一枚づつ切って。

── ああ!そういうことですか。あれを貼るのは出版社の仕事だったわけですね。

浅利 そうそう。いろいろ思い出してきたけれど、面白かった時代だわな。

── それじゃあ乱歩とかの検印が置いてあったってことですか? 山手樹一郎とか。

浅利 山手樹一郎だとか、司馬遼だとか。あの頃は司馬遼が売れてたなあ。

── 司馬遼って春陽堂から出てたんですか?

浅利 『上方武士道』、『梟の城』、『風神の門』か。うちがもってたんだよね。もう「うち」じゃないけど(笑)。それが結構売れてたね。あとは源氏鶏太。知ってる?

── はい。

浅利 それからあの頃は川内康範の『骨まで愛して』って知ってる? 「平凡」「明星」で連載小説を書いたやつ。あれを春陽堂が出していた時代でね。だから考えれば楽しかったね、あの頃はね。

── 当時のお給料ってどのくらいだったんですか?

浅利 初任給がね、一万円いかなかったかな。昭和三十八年で、ひと月九千いくらだったかな。

── それはでも稼いだ感じはありましたか?

浅利 あったね、やっぱりね。おふくろに持っていったら嬉しがってね。

── はい。

浅利 本をさ、紐で縛って出してたなんてわからないでしょ?(笑)

── わからないです。古本じゃないんですから(笑)。それは習ったんですか? 縛り方を。

浅利 うん。

── 先輩っていうのは、恐かったですか?

浅利 そうでもないよ。いい加減だよ、みんな(笑)。鼻歌歌いながら板ついたり、そういう時代。みんなもう。

── ギスギスせず?

浅利 うん。まだ文庫屋さんも多くなかったし。岩波、創元、春陽堂、ぐらいだったのかな。角川文庫はもうあったか? 文庫が少ないから春陽堂みたいな大衆本は売れたわけよ。

── はい。

浅利 新潮にしろ角川にしろ創元にしろ、固い本でしょう。創元なんか洋物だからね。チャンバラ小説なんてなかったわけよ、文庫でね。

── そうだったんですね。

浅利 だから山手樹一郎は売れたね。あとは乱歩。

── そういうのは読んでたんですか?

浅利 読んでなかった。

── 仕事としてやってた感じですか?

浅利 仕事やって、夜はだって夜学にいくじゃん。

── ああそうか。時間ないですね。高校に通って卒業して、その後もずっと倉庫をやってたんですか?

浅利 途中で、三、四年経ったら経理をやれって言われて、経理をやったんですよ。

── それは簿記が得意だったからとか?

浅利 そうじゃなくて、人がいなかったんじゃないかな(笑)。

── その頃、春陽堂書店ってどれくらいの人数の会社だったんですか?

浅利 中目黒だけだと、十五、六人かな。

── 本社みたいなのもあったんですか?

浅利 本社は一応日本橋に。

── そこはもっといっぱいいたんですか?

浅利 一人か二人だったんじゃないかな。

── えっ、そんな人数で?

浅利 それはさ、どこの会社だってそんなもんだったんじゃないの? 岩波だ角川だってところは違うかもしれないけど、春陽堂クラスの会社っていうのはそんなに社員がたくさんいなかったんじゃないかな。

── はい。

浅利 だからおまんま食えてたんじゃないかな。

── そんななか経理をやり。

浅利 経理をやり、それで昭和四十四年に茗荷谷へ移ったわけよ。

── 自社ビル?

浅利 自社ビルね。それで俺もそっちへ行って。そこからは品出し係で、本を入れたり出したり、その頃もペタペタペタペタ検印紙貼ってさ。

── まだ検印紙があったんですか?

浅利 あったのよ。

── 伝票っていうのは手書きで書いてたんですか?

浅利 手書きで書いてたはず。俺、そこまでは見てなかった。

── それはまた別の担当がいて?

浅利 担当がいた。だからいい時代だったかもしれない。まだまだね。

── はい。

浅利 それで結局、角川が『犬神家の一族』を出し始めた頃から、「あんたの所に本を多く渡すから、角川の本を置け」みたいになっていったのよ。書店は欲しいじゃない。売れる本。

── はい。

浅利 横溝はうちにもあったんだよ。

── 角川の『犬神家の一族』が売れて、春陽堂の横溝も売れるってことはなかったんですか?

浅利 あんまりなかったんじゃないかな。今から考えると装丁が悪かったのか何なのか知らないけど、やっぱりあの宣伝力には敵わなかったよね。

── 春陽堂の棚が少しずつ減るとかは?

浅利 あまりなかったね。結局それよりチャンバラ小説が売れてたわけよ。

── それはサラリーマンが読んでいた?

浅利 そうだね。おじさんたちが読んでいた。でもさ考えてみりゃ山手樹一郎なんて9ポだよ。9ポって小さい字があるでしょ。あれの二段組だったわけよ。

── 文庫で!?

浅利 そう文庫で。それでも売れてたんだよ。信じられないでしょ、いま。俺も信じられない。読めねぇよ、あんなの。うちに何冊か置いてあるけどさ。本当に小さくてさ。

── そうですよね。

浅利 でも、あれが売れてたわけなんだよね。長編も一冊で全部済んだわけよ、9ポで二段だから。だから良かったんじゃないの、買う方はね。上下巻じゃないんだから。

── 外回りの営業っていうのはいつ頃からなんですか?

浅利 それが思い出せねぇんだよ。若いアルバイトや社員がどんどん入ってきたからそういう連中が品出しとか倉庫の業務をするようになって、営業があまりいなかったっていうので、俺がやることになったのか。いなかったんだよな、たしか。営業が。

── そうなんですか。

浅利 要するに書店回りがさ。だからそろそろやらなきゃいけないんじゃないかっていうことで俺がやるようになったんだよね。だから書店台帳なんてそんなカッコいいもんなかったよ。

── 訪問する本屋さんのリストがなかった?

浅利 うん。それだから俺が作ったりね。

── それは何歳ぐらいですか?

浅利 三十三、四歳ぐらいで営業やるようになったかな。

── 昭和でいうとだから......。

浅利 昭和の四十何年? ぐらいだよね。昭和五十年になったかどうかぐらいかな。営業部長ってのはいたけどさ、営業部長はコッチの方で忙しくて。

── 呑む方で。

浅利 うん。だから俺が本屋に行って。

── そういうのは嫌だとは思わなかったですか?

浅利 思わなかったね。営業自体は人と......こう見えてもね、人と話すのは苦手な方なんだよ?(笑)。

── ええ?(笑)

浅利 信じらんないだろうけど人見知りなの(笑)。でもね、商売だから。やれって言われたらさ。

── 「春陽堂です」って名刺出して、訪問して歩いたんですか?

浅利 そう。その頃は春陽文庫って名が通ってたわけよ。「ああ、来た」って。売れてる売れてないってはっきり言われてね。よく注文取れてたよな、今思うと。

── 注文書っていうのを自分で作ってたんですか?

浅利 いや、それは誰かが作ってくれてたんだけどね。

── あの頃ってパソコンってないわけですよね。注文書ってどうやって......手書きで?

浅利 印刷したよ。そのぐらいは印刷屋に頼んで作ってた。

── 営業のトークっていうのは誰かに教わったんですか?

浅利 「売れてます~?」って。それだけ(笑)。

── それだけ(笑)。

浅利 それで本屋さんもはっきり売れてる売れてないを言ってね。そうすればなんとかなるじゃない? 売れてるなら売れてるで補充注文もらったり、欠本取ってとか。そういうことをやってたね。とにかく、行き当たりばったりに。

── どんな書店に行ってましたか?

浅利 大きなところには行かなかったね。

── ええ??

浅利 そりゃ、いくらあたしだって、気後れしたから(笑)。

── 僕の記憶だと浅利さんは栄松堂さんと仲が良かったような。

浅利 そうそう。栄松堂はもうすごい売れてたから。東京駅に行けば、なにせ注文が取れたのよ。あの時は地下に三軒ぐらいあったのね。それといっしょにキオスクもあったから。弘済会のね。

── はい。

浅利 あそこに行けば一日の稼ぎになるから(笑)。

── 稼ぎ? いいですね(笑)。

浅利 それでちょっと「じゃあセンちゃん、飯食おうよ」って言ってさ。それとあの頃弘済会は単位が大きくて、「これ、五十冊入れて」とか注文くれてさ。

── それは何を?

浅利 文庫をね。十冊、二十冊と入れてくれっていうので。

── キオスクっていうのは、ホームにあった売店に営業に行くんですか?

浅利 そう。

── あの回転灯みたいな?

浅利 そうそう。あの頃キオスクも地下に倉庫があったわけよ。納品するところが。

── それじゃそこに行って補充をする?

浅利 うん。まず書店に行って、売り場に行ってチェックして、で、会社に持って帰ってチェックして、それでさっきも言ったようにトラックでね。

── そうやってだんだん自分なりの営業コースっていうか、パターンみたいのができていったんですか?

浅利 そうね。動物的勘があったんだろうね。あるでしょ? ここだったら大丈夫だろう、みたいなのが。

── はい。

浅利 やっぱり外れるのは嫌じゃん(笑)。

── はい(笑)。

浅利 ちょっとまた話はずれるけども、これだけ今もいっとう頭に来てるのがあってさ。神戸の方の本屋に行って、「どうですか売れてますか」って訊いたら、「おめえの所みたいな、こんなような人が読むような本はうちにはないよ」って言われたんだよ。

── 手を震わせて?

浅利 そう。要するにじいさんばあさんしか読まないような本は無いよっていうわけ。ふざけんじゃねえコノヤロー、それならお前のところには二度と売るもんかって。こっちだって意地があるじゃない。

── それはその場では言わないで?

浅利 そこでは我慢するよ。言っちゃったら終わっちゃうからさ。でもいいんだけどね。終わったら終わったで違うところで売ればいいやって思ったけどね。

── そういう思いはありましたか?

浅利 あった。いい加減だね俺なんか。営業の話を俺に訊くようなあれなんてないんだよ。

── いやいや。

浅利 そういうふうにしてないと気持ちがやりきれないっていうかさ。俺だって注文取らないと給料の分さ。

── はい。

浅利 それからだんだん、給料も年に一万ぐらい増えていって。

── そうするとちょっとはやりがいなんて感じたものですか?

浅利 そうだね。一日中会社にいなくてすむっていうのがね。

── ははは(笑)。

浅利 いい加減なもんだよ(笑)。でもさ、ちゃんと本屋に営業には行ってたよ。言っておくけど(笑)。

── 本屋へ行くのは好きだった。

浅利 そう。だからああいうのが好きなんだろうね、俺はね。だからいまだに近所のくまざわ書店に行って、ああこういう本が売れているのかって考えちゃう。まあ、俺がやっていたのは本の売上が右肩上がりで、文庫本なんか売れ始めた頃だけど。

── キャリアのほぼ全部で、業界が好景気で昇っていくのを見ている。

浅利 一応見てるね。

── 「売れてるな」って実感はありましたか?

浅利 ありましたね。やっぱり前の月入れたのがほぼなくなってるとかそういう書店もあったし。だからあの頃は流通がうまく行ってなかった時代なんだよね。補充っていうか。

── 間に合わなかった?

浅利 書店が取次へ補充カードを送ってたんだろうけど。

── それがすぐ納品されない。

浅利 そうそう。だからやっぱり取次の流通センターができたのは大きかったよね。日販なら王子、トーハンなら五軒町。倉庫ができて、きちんと各版元の文庫を置き始めてからスムーズに本屋に流れるようになったんじゃない?

── そうなんですね。

浅利 だから出張の時は各地の取次の支店に行ってね。「補充しに来ました~」って、十冊、二十冊と注文を取ってきてね。『桃太郎侍』を十冊とか、乱歩のこれを十冊とかね。今はほとんどなくなっちゃったでしょう? 地方の支店が。

── ないですよね。春陽文庫のよく売れるエリアってどこだったんですか? 東京駅と。

浅利 東京駅と......あとは渋谷の大盛堂も売れたかな。でも大どころでは売れなかったよ。三省堂とか紀伊國屋。ああいうところはあまり売れない。

── そうなんですか?

浅利 大衆専門で売るような本屋と、高級専門の文庫を売るところっていうのがあるんですよ。だから営業ではうちの文庫が売れるようなお客様のところに行く。

── 僕が浅利さんと初めてお会いしたのは、山下書店の店長さんを中心とした飲み会で。

浅利 ああ、そうそう。山下書店も良く売ってもらった。だんだん思い出してきた。山下は春陽堂を良く売った。

── 忙しいなって感覚はありましたか?

浅利 ない。

── ないですか(笑)。

浅利 自分で忙しいと思っちゃダメだと思ってたから。

── 残業はしてました?

浅利 残業? してたよ。

── それを忙しいとは思わない?

浅利 思わなかったね。まあでもそれでも一時間ぐらいかな。五時おしまいで六時ぐらいまでとか。中卒で働き出した時なんかは、土曜日は三時までだったからね。それから半ドンになって......半ドンってわかる?

── 知ってます。はい。

浅利 半ドンになって、午前中で終わってね。それから週休二日で土曜日も休みになって。そういう時代だったから。

── 半ドンの頃って、仕事終わった後みんなどうしてたんですか?

浅利 帰ってた。

── 飲みにいったりしていたのかと思ってました(笑)。

浅利 三時までっていうのが一等面倒くさかった。半ドンよりね。半ドンはまだ帰れば時間があるじゃない。三時って時間が無いんだよ(笑)。

── そうですよね。

浅利 そういう時代だよ。いろいろ面白かったよ。今から考えると。

── 浅利さんは、お酒のお付き合いは?

浅利 結局ね、センちゃん達と飲みに行ったくらいかな。

── 栄松堂のセンザキさんという人と。

浅利 かなり仲間になったやつがいて。

── それはどういうきっかけで仲良くなったんですか?

浅利 それがね、ある女性の書店員さんが、「春陽文庫は売れるよ」って薦めてくれたの。

── それはお店の人ですか?

浅利 お店の人。当時の......名前忘れちゃった...。大事な人だったんっだけどなあ。その人が、「春陽文庫は置けば売れるよ」って、他の店の連中に言ってくれて、それで置き始めたの。

── 東京駅にあった三軒が?

浅利 そう。そうしたら本当に売れちゃったわけ。やっぱり電車に乗って遠くに行くときに時代小説なんてちょうどよかったのかも知れない。

── はい。

浅利 だからその女性のおかげです。春陽文庫が東京駅で売れるようになったのは。

── それでそのセンザキさんとかと懇意になっていくわけなんですか。

浅利 そうそう。あと二、三人いるけどね、懇意になったのはね。そいつらとは良くコレやって。

── 飲みに行って。

浅利 うん。やっぱりお礼がしたいじゃん。

── はい。同世代ぐらいですか?

浅利 いや、下だったかな。「ちょっと昼行かない?」「ちょっと夜行かない?」みたいな。それで飲んだり食ったりしたかな。

── 他の出版社の人と飲みにいくとかは?

浅利 あんまり知り合う機会がなかったかな。ほぼ一匹狼だからね。

── はい。

浅利 人よりも売りたいなって俺でも思うから(笑)。これでも。

── 他の出版社と仲間になってっていうんじゃなくて?

浅利 仲間になってもね。

── 他の会社の文庫をどかしてうちのを並べてくださいなんて営業は?

浅利 そういうのは絶対しない。そういうなんていうかね、仲間内の仁義はあったよね。他の文庫屋でも......これどかしてくださいなんて、角川ぐらいからじゃないの?

── そうなんですね(笑)。

浅利 「読んでから見るか 見てから読むか」とかやり始めてじゃない? そういう事をやりだしてから、なんかおかしくなったよね。俺から言わせればね。

── 売り場の取り合いみたいな?

浅利 売り場の取り合いね。その前はみんな仲良くやってたよ。お互いうまく生きられるようにね。でもそれじゃ済まなかったんだよね、時代的に。

── 「これは売ったなぁ」って記憶にある本ってあります?

浅利 やっぱりさっき言った司馬遼さんと乱歩と山手かな。山手も装丁を全部浮世絵にしたんですよ、九十四点か。そしたらまた余計に売れるようになったんだよね。

── へえ。

浅利 それ以前は北条誠、川内康範、そういう清純小説、島倉千代子の歌で言えば「からたち日記」とか「東京の人よさようなら」とか「骨まで愛して」だとか、そういうような「平凡」に書いていたような連中の小説を文庫にするとこれまた売れてたんですよ。

── そうなんですね。

浅利 あとは源氏鶏太、中野稔、そのあたりだね。ユーモア小説。城戸禮って知ってる?

── 知らないです。

浅利 これが「拳銃刑事三四郎」シリーズなんですけどね、赤木圭一郎の映画は知ってます?

── それも知らないです、すみません。

浅利 知らない! 「抜き射ちの竜」っていう赤木圭一郎の有名な映画があるんですけど、その原作本を出していて、ああいう拳銃小説とかね。

── はい。

浅利 火野葦平だとかさ、『無法松の一生』とかね。

── それを春陽文庫で出していた。

浅利 出してた。それがまた売れててねえ。さっきも言ったように、「明星」「平凡」を読むお姉ちゃんたちが、文庫で出たものを買ってくれてたんですよ。

── あっ、女性も買ってくれてたんですか?

浅利 そうそうそう。「平凡」「明星」に載ってた小説をね。うちが文庫にして、それを出して、そのお姉さんたちが買って頂いてたと。当時はね。

── じゃあ客層としては両極がいたってことなんですね。サラリーマンと女性と。

浅利 そういうことだね。

── 今みたいにマーケティングとかっていって、何歳の何々世代、なんて考えたことは?

浅利 考えたこともない。ここら辺って、俺はだから場所で見てたかもしれないね。

── 場所?

浅利 「この辺はこういうような本が売れるんじゃねえかな」みたいなね。

── そういうものを考えていた。

浅利 そうそう、勘で行ってたの。場所を見てね。

── 売れないだろうけど注文取れればいいやって感覚はなかったですか?

浅利 ない。無駄なことはしたくなかったから。

── それはお互いにとって無駄っていうことですよね。

浅利 そういうこと。食品ロスじゃないけど(笑)。やっぱり、本だってかわいそうじゃん。売れてくれないと。

── ええ。

浅利 売れてねぇのに長く置いてあったりとかさ。

── あと八重洲ブックセンター本店の文庫担当の方と仲が良かったような。

浅利 Tさん?

── そうです、そうです。年齢もかなり違うのに親しそうだなと思ってました。

浅利 これさ、俺が辞めるときTさんがくれたんですよ。

── 文庫のカバー。革製の立派なものですね。

浅利 うん。俺が「辞めるんだよ、今度」って言ったらこれをくれてさ。

── いまカバーかけてるのは、池井戸潤の『オレたち花のバブル組』ですね。

浅利 これはもう、ブックオフで百円だったから(笑)。今は俺、金が無いから新刊が買えないからね。

── そうやって、なんていうんですか、書店員さんと仕事を離れて付き合うっていうのはどんな感じでされていたんですか。「今度ご飯でも行きますか」みたいな感じなんですか?

浅利 やっぱりね、自分のところの本の話はあまりしないの、俺は。何が売れてるかは訊くよ。それは。

── はい。

浅利 例えばTさんは落語が好きなんだよ。そうすると落語の話ばっかり。

── 浅利さん、落語大好きですもんね。

浅利 そうそう。それでセンちゃんは映画が好きなのよ。となると映画の話ばっかりよ。あとはジャズが好きなやつとかね。だから俺の趣味の合うやつと行ったかな。それが功を奏していた部分はあるよね。

── どういうやり取りの中でわかるものですか。

浅利 ううーん。なんとなく話しているうちに「この人はジャズが好きなのかな」とか、喋り方がそういう様な喋り方だから「落語が好きそうだな」とかね。

── 感じ取る(笑)。

浅利 そう。「俺は実は志ん生が好きんだよ」って話したら、「オレもだよ」みたいな。「こういう映画が好きなんだよ」とか。今じゃ通用しないような営業術(笑)。

── 今は雑談できないくらい忙しいですからね。浅利さんは結局春陽堂に何年勤めてらしたんですか?

浅利 四十......何年かな。

── 十五歳で勤めはじめて?

浅利 そうそう。辞めたのは五十五、六歳だから。六十前だからね。四十年、四十年以上はいたってことだね。

── 五十五歳で辞めたのは?

浅利 もう定年だったからね。

── 定年だったんですか?

浅利 たしか五十五が定年だったな。

── そうだったんですね。

浅利 その前にいろいろあって退職金を頂いちゃったわけ。

── はい。

浅利 それで子どもたちを私立大学に行かせられて、俺ら夫婦もなんとかマンションを買えて。

── それは五十歳ぐらいの頃ですか。

浅利 いや、もっと前かな。それから少し働いて、五十五歳で定年になって、それじゃあもういいかってんでBOOKS SAGAに行ったんだったかな。

── えっ? なんですか?

浅利 本屋さんよ。

── えっ!? 書店員になったってことですか?

浅利 そういうこと! 実は。

── ええええ。どこにあったんですか?

浅利 武蔵小杉。

── そうだったんですか。知らなかった。

浅利 そこの店長と仲良くなってたから、じゃあ来ないかっていうことで行ったんだけど、もうダメよ。私ももう五十いくつで、暗算で全部やるのよ、無理(笑)。

── レジが?

浅利 何百何十円から何円引いてお釣りとか、無理。

── まごつきましたか?

浅利 それはもう。

── それはどれくらいやったんですか?

浅利 一ヶ月でもういいや、辞めるって。向こうもそう思ってたらしいから、ちょっと色をつけて辞めさせてくれたからね。

── それでコスミックに行くんですか。

浅利 そう。それは春陽文庫に大栗丹後って作家が本を出してたわけ。その人とどこかで会って、「先生、就職先いいところない?」って訊いたら、今コスミックで書いてるから、紹介してやるって言われて。それで行ったわけよ。

── はい。

浅利 偉そうな態度してね(笑)。

── 浅利さんが(笑)。

浅利 それでも社長が会ってくれて、春陽堂にいたって経験を買ってくれて、当時人が足りなかったのか即雇ってくれて。

── それは社員で雇ってくれたんですか?

浅利 契約社員みたいなもんだな。

── へえ。

浅利 それで十年間。

── 六十五歳過ぎまで出版営業をしていたんですね。

浅利 自分の知ってるお店を回ってね。また時代文庫だからさ。

── 僕の記憶だと浅利さん、その頃DVDを書店さんに営業してましたよね?

浅利 そうそう、俺が入って四、五年経って五百円DVDってのを売り出したんだよ。

── 廉価版のやつですよね。

浅利 廉価版のやつ。それがバカ売れしたんだよね。

── なんか大宮でばったりお会いした記憶があります。

浅利 押田謙文堂とかあの対面のビル、なんていったっけ。

── ロフトですかね。ジュンク堂さんがあった

浅利 ロフト! ジュンク! あそこも売れてた。DVDがね、本よりもね(笑)。あの辺は結構行ったなあ。浦和の須原屋さんも売ってくれたなあ。

── DVDを売るのは嫌だとか、そういうへんなプライドはなかったんですか?

浅利 ない。

── それは売れるのが面白いみたいな?

浅利 そう。売れれば楽しい。やっぱり営業だもん。選んでちゃダメだよ。俺から言わせれば。

── はい。

浅利 まあ、たまたま俺の性格と合ったものが売れてね、俺はよかったんだけど。

── 時代物と映画と。

浅利 そうそう。DVDもまあ映画じゃん。映画は俺好きだし。

── はい。

浅利 だからそういうことじゃないかなぁ。俺はここまで来れたのもね。

── 他の職種につこうとか考えなかったんですか?

浅利 なかったね。なぜか、なかった。やっぱりどこかで、歌の歌詞じゃないけど「どうにかなるさ」ていうところがあるんだよね。

── それは出版の中で「どうにかなるさ」っていう。

浅利 そう。転職して行ったところで俺の好きなDVDがあったりさ。そういうのがね。

── DVDはどうやって営業していたんですか。欠本取るんですか?

浅利 取るよ。

── あれの欠本取るの、めっちゃ大変じゃないですか。

浅利 商品を並べる棚をコスミックで買って、それを貸し出したわけ。それで一セット売り出して。

── 一セット入れる。

浅利 それで補充表があるから、欠本調査して。

── それを六十五歳までやってたじゃないですか。いつまでこんなことやってんだ、みたいな気持ちにはならなかったですか?

浅利 ならない。

── なんでですか?(笑)。

浅利 なんでだかわからないけど(笑)、だからある日、会社から「もう六十五過ぎたからいいだろう、お疲れさん」って言われて。

── 管理職になりたいとか、そういうのは?

浅利 全然ない。なんもないです。

── 「事務の人っていいなぁ。会社に一日いてパソコンの前に座ってられて」みたいなのは、なかったですか?

浅利 ない。「それじゃちょっと行ってくるから」なんつって会社を出て行っちゃって、で、夕方帰ってきて、時々は直帰ね。それもできたし。

── じゃあ偉くなることよりも、自由のままのほうが。

浅利 そういうことだね。俺はまったくそれ。人を使いたいなんて気は全然なかったから。

── だけど冬だって寒い中コートを着て行ってお店の前で脱いだり、暑い日はそりゃあもうヘロヘロになりながら本屋さんに通うわけですよ。そういうのは全然苦にならなかったですか?

浅利 ならなかったねぇ。なんだろう、能天気なんだよ、俺は。ある意味。

── 年齢とかを気にしたことも?

浅利 あんまりなかったね。若くても話してる中から人柄を感じ取って、それで「最近こんな映画観た?」とかさ、そうすると向こうもさ、そういった話題だとちょっと話してくれてね。

── はい。

浅利 でもそれがだんだん効かなくなってきた時代に辞められたからよかったんだろうね。

── そういう変化は感じました?

浅利 感じた。そもそもは取次の経営がおかしくなり始めた頃かなあ。仕入に行ったって相手にされないとかさ、そういう時代になりつつあったからさ。

── 営業のトークなんて考えてましたか?

浅利 しゃべることじゃなくて、相手が何を思ってるのかは考えるよね。俺、合わせるのが上手いんだよ。

── 上手いですよね(笑)。

浅利 実は(笑)。

── 人見知りのはずなのに(笑)。

浅利 そう。人見知りのはずだったのが、いつの間にか。

── きっかけってありました?

浅利 ない。俺、無理しないから。なんだってね。

── 合わないなって人もいましたか?

浅利 そりゃあいたよ。いたけど、みんながみんな気が合うやつなんているわきゃねぇと思ってるから。

── はい。

浅利 向こうだってそうだよ。

── そうですよね。

浅利 だから気にしてもしょうがないと思ってた。気が合うやつとしゃべればいいや本を売ればいいやって思ってた。

5月9日(金)最終電車

朝ごはんを作っていたら娘が部屋から起き出してくる。昨夜からANAのセールが始まったとのことで、8月に行く長崎のチケットを取ってもらう。

健保に出頭し、痛風の薬をもらう。5年ほどバリウムの検査を受けていないのがバレ、胃カメラを勧められる。

定期購読者様分の「本の雑誌」6月号が印刷所から届く。バイトの鈴木君とツメツメに勤しむ。2時半終了。

昼食を食べた後、田原町のReadin' Writin' BOOKSTOREへ。大竹聡さんと橋本倫史さんのトークイベント「市場と酒場──お店という人生に耳を傾ける。」を拝聴する。

人に話を聞いて文章を書く、ということの覚悟を語り合う素晴らしい内容で、胸が熱くなる。

南浦和の武蔵野線は新習志野行き最終電車で23時53分発のはずが、京浜東北線の遅れのため、15分ほど南浦和で停車。早く帰りたい。

5月8日(木)編集の流儀

ワクサカソウヘイさん来社。単行本の企画を打ち合わせ。さすがの"ふざける力"で気づけば3冊分の企画ができあがる。そしてひとりの著者と出会ったら3冊作るのが私の流儀。

恐れずに本を作ること。作りたいものを作ること。どんどん作って売ること。それが、ゴールデンウィークに考えた結論なのだった。

5月7日(水)悪夢

2時間起きに目が覚め、何度寝ても王子で開かれている謎のブックイベントの夢を見る。荷物が届いておらず浜田を叱責したり、打ち上げの会費を払わずに帰った一冊!取引所の渡辺さんの分も支払わされたりで、起きたときにはぐったり。すでに1日働いたかのような気分。

疲労困憊で8時半に出社。ゴールデンウィーク明けで溜まっていたデスクワークを集中してこなす。

5月6日(火)エンターテイメントとは?

冷たい雨が降るの中、ポンチョを着て自転車漕いでスタジアムに行き、屋根のない下でびしょ濡れになりながら90分椅子にも座らず応援し、1ゴールも見れず(枠内シュートも0)で敗戦し、まるで目の前で恋人が犯されているのかの如く相手サポーターの勝利の歌を聞かされ、また雨降る中、自転車漕いで家に帰る。

浦和レッズの5試合ぶりの敗戦とともにゴールデンウィークが終わる。明日から会社だが、会社にはまったく行く気が起きない。

しかしどう見てもエンターテイメントとしてあり得ない苦しみが待っていたり、ダイパもコスパも非常に悪く、もちろん給料ももらえない埼玉スタジアムには、今すぐにも行きたいと思うのはなぜなんだろうか。

5月5日(月)心に文化シヤッター

  • おかわりは急に嫌: 私と『富士日記』
  • 『おかわりは急に嫌: 私と『富士日記』』
    古賀 及子
    素粒社
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  • 巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある
  • 『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』
    古賀 及子
    幻冬舎
    1,760円(税込)
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朝、介護施設の車に母親を乗せ、ランニングで浦和の自宅まで帰る。

何度もカレンダーを見つめていた母親は、赤色で祝日になっている今日と明日も自宅で過ごせると思っていたようだが、それでは私の休日がなくなってしまうのだ。心に文化シヤッターを降ろし、Nice Shut Outで送り出す。

15キロ走るとさすがにシャリばてしたので、エレルギー補給のためカツカレーを食そうとヤオコーにトンカツとレトルトカレーを買いに行く。しかし帰宅すると買ったはずの「銀座カリー 辛口」が買い物袋になく、店のカゴに忘れてきてしまったらしい。認知症もうつるのかもしれない。

取りに戻るのは面倒なので、近所のBig-Aに行き、「ビーフカレーLEE 辛さ×10倍」を買い、希望通りカツカレーを食べる。

午後は、古賀及子『おかわりは急に嫌 私と『富士日記』』(素粒社)を読んで過ごす。

古賀及子は、今、最も新作を楽しみにしているエッセイストで、半月前に出た『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』(幻冬舎)も期待を超える面白さだったのだが、この『おかわりは急に嫌』は、武田百合子の大名作『富士日記』の一説から『富士日記』の魅力を紐解きつつ、自身の経験や記憶を綴るエッセイとなっている。

実をいうと私は『富士日記』に何度も挑み、何度も挫折している『富士日記』脱落者なのだが、『おかわりは急に嫌』を読んで、『富士日記』の読みどころというか楽しみ方というのがわかった気がするのだった。

改めて5度目(くらい)の『富士日記』に挑戦したいと思う。

5月4日(日)複雑な感情

晴天。車椅子を押して、母親と父親のお墓参り後、散歩。途中、アサカベーカリーがやっていたので、ハムロールとたまごパンを購入し、昼食とす。

一見、親想いの優しい息子に見えるけれど、車椅子を押しているときの感情は、一冊の小説を読んだがごとく様々な思いが去来しているのだった。それは喜怒哀楽なんてわかりやすい感情ではなくもっともっと複雑な感情だ。しかしこういう複雑な感情を経験するのはいいことだと思う。

午後は本を読んで過ごす。

5月3日(土)見る目

朝、介護施設に母親を迎えに行き、ゴールデンウィークながら週末実家介護。ただし本日は3時から埼玉スタジアムで浦和レッズ対東京ヴェルディの試合があるため、午後の介護は妻に代わってもらう。

日課のランニングを10キロした後、実家の春日部からママチャリを45分漕いで埼玉スタジアムへ。この後私はゴール裏で90分飛び跳ね声援を送り、改めて45分ママチャリを漕いで春日部に帰るわけだ。名付けて埼スタトライアスロン。

試合が始まる前に旗振りのタイミングを教えにきたサポーターの人が、「こういう日はぬるくなるので気をつけましょう」と注意していたのだが、まさしくその通りで、なぜか埼スタはたくさん人が入るときほど声が出ず、よって試合も負けることが多いのだった。

しかし本日は、その声かけのおかげか選手入場時の「愛さずにはいられない」から力強い声がスタジアムに響き渡り、メインスタンドとバックスタンドの屋根に反響し、びりびりとこちらの皮膚を刺激するほどの後押しで、2対0の勝利を引き寄せた。

正直に告白すると私は、4月2日の清水エスパルス戦で2対1で勝った後、たとえ勝ったとしても何の上積みのない試合内容に、すぐさまスコルジャ監督を解任すべしと息子に主張していたのだった。

チームはその後、アビスパ福岡には負けたものの、FC町田ゼルビア戦から勝ち続け、本日の東京ヴェルディ戦はまったく危なげなく、まるで王者の風格で5連勝を飾った。

何年見てもサッカーを見る目がまったく養えず、上積みがないのは私だ。私のようなサポーターがいるから何年もリーグ優勝できないのかもしれない。

ママチャリを漕いで埼スタトライアスロンのゴールである実家に帰る。

5月2日(金)レイクタウン

5月2日(金)レイクタウン

ゴールデンウィークらしいことをしようと、妻と娘と越谷レイクタウンへ行く。土砂降りにも関わらず店内はすごい人出に驚いたのだけれど、娘曰く今日はまだ平日でもあるから空いている方とのこと。何もないところにこれだけの建物を立て、消費を生み出す力におののく。

人間というのはひまであることを恐れ、お金を使いたい生き物なのだ。その欲望をどうにか本に向けてもらえるよう考えなければらない。

昨日、お墓参りで乗った武蔵野線は、ほぼすべての座席が埋まる程度の乗車率だったが、80%の人がスマホを手にしていた。移動中などの隙間時間は完全にスマホに奪われており、電子書籍はともかく、ここにいわゆる「本を読む」読書を入れ込むのは至難の業だろう。

そうなると映画館に映画を観に行くような本をわざわざ読むための読書時間を作り出さなければならないのだろうかと考えたのだった。

昼食には高校以来約40年ほど通っている「珍来 越谷店」で、炒飯と餃子を食す。変わらぬ味、変わらぬ量に幸福を感じる。

5月1日(木)多磨霊園

  • 木に「伝記」あり 巨樹イチョウの史料を探して全国を歩く (朝日選書1048)
  • 『木に「伝記」あり 巨樹イチョウの史料を探して全国を歩く (朝日選書1048)』
    瀬田 勝哉
    朝日新聞出版
    2,640円(税込)
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  • 割れたグラス (アフリカ文学の愉楽 1回配本)
  • 『割れたグラス (アフリカ文学の愉楽 1回配本)』
    アラン・マバンク,桑田光平
    国書刊行会
    2,860円(税込)
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  • たのしい保育園
  • 『たのしい保育園』
    滝口 悠生
    河出書房新社
    2,200円(税込)
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    HMV&BOOKS

晴天。12時20分にAISAの小林渡さんと多磨霊園駅で待ち合わせ。近くの食堂でアジフライ定食を食べながら瓶ビール2本。13時に駅に戻り、高野秀行さんと合流。歩いて多磨霊園に向かう。

そもそもはサバティカル休暇中の高野さんから古道甲州道歩きの再開の前に一度身体を動かしたいとリクエストあり、渡さんが多磨霊園で高野秀行という作家の育ての親だった編集者のお墓参りをして武蔵境駅まで歩くコースを提案したのだった。

強い日差しの中、広大な墓地を彷徨い、55歳で亡くなった集英社の編集者・堀内倫子さんのお墓にたどり着く。堀内さんは、『幻獣ムベンベを追え』、『巨流アマゾンを遡れ』、『怪しいシンドバッド』、『アヘン王国潜入記』の文庫化、そしてのちに酒飲み書店員大賞を受賞し、高野さん初の重版・ベストセラーとなった『ワセダ三畳青春記』を作った編集者なのだった。お墓を掃除し、線香を供える。

その後、同じ霊園にある坪内祐三さんのお墓にもお参りする。実はこれまで一度のお墓参りできておらず、ずっとそのことが気になっていたのだ。『日記から』を墓前にお供えし、不沙汰のお詫びとこの5年の間の報告をする。お墓の場所がわかったのでこれからはちょくちょくお参りに来よう。

てくてくと野川公園を抜けて4時前に武蔵境駅到着。約10キロのウォーキング。調べておいた「味の店 いなかっぺ」で献杯。すっかり飲みすぎてしまう。

瀬田勝哉『木に「伝記」あり 巨樹イチョウの史料を探して全国を歩く』(朝日選書)
アラン・マバンク『割れたグラス』(国書刊行会)
滝口悠生『たのしい保育園』(河出書房新社)

を購入。時間と心に余裕があると棚がよく見える。

4月30日(水)ラーメン

9時に出社。5月の新刊のチラシをFAX配信。

2時に仕事を納め、ゴールデンウィークに突入する。

上野まで歩いて帰る道すがら、「大至」にてラーメンを食す。以前、1度訪問したことがあったのだけれど、過小評価していたことに気づく。醤油味の汁に、なると、チャーシュー、ゆで卵、ほうれん草、のり、長ネギといういたってシンプルなラーメンにして、超絶美味なのだった。これから頻繁に食すことを舌が求めていた。

4月29日(火)イアン・グラハム『サッカーはデータが10割』

  • サッカーはデータが10割 最強アナリストが明かすプレミアリーグで優勝する方法
  • 『サッカーはデータが10割 最強アナリストが明かすプレミアリーグで優勝する方法』
    イアン・グラハム
    飛鳥新社
    2,500円(税込)
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    HMV&BOOKS

休み。

イアン・グラハム『サッカーはデータが10割 最強アナリストが明かすプレミアリーグで優勝する方法』(飛鳥新社)を読む。めちゃくちゃ面白い。2025年サッカー本大賞決定だ。こんなにわくわくするサッカー本は久しぶり。

最近サッカーを見ているとポゼッション率はもちろんのこと走行距離やスプリント回数、そしてゴール期待値など様々なデータが記されそれがいったいどう役に立つのか?あるいは世界の最先端ではどんなデータが取り扱われているのだろうと興味が湧いていたのだけれど、この本はまさしくそのノンフィクションで、非常に興味深く面白いのだった。

そもそも正解がないようなサッカーをデータ化できるのだろうかと思っていたのだけれど、現代のテクノロジーと数学の理論においてそれは数値化できるもので、いち早く取り入れ、日々開発しているこの著者のいたリバプールは、しっかりクラブが強化され、いくつもの栄冠を手にしているのだ。

帯の表4に「これはサッカー版の『マネー・ボールだ!』」とあるけれど、まさしくその通りの一冊。目から鱗が何枚も落ちた。

4月28日(月)校了

春日部より出社。

日下三蔵『断捨離血風録』と小山力也『古本屋ツアー・イン・日下三蔵邸』を校了する。楽しい本作りだった。

午後、イラストレーターの信濃八太郎さんが来社。信濃さんのお父様の蔵書整理がその遺言により古書現世の向井さんに依頼あり、手伝いに私が赴いたところから書籍の企画を検討するに至るのだった。まさしく「本は縁」で作るという真髄なのだった。

4月27日(日)花

晴天。母親の車椅子を押して父親の墓参り、そして町内をぐるりと散歩する。あちこちの庭先に花が咲き乱れ、母親はそのひとつひとつをじっくり眺めている。

そういえば共に埼玉スタジアムに通っていた頃も、道ゆく道に咲いている花に足を止めていたのだ。こんなに花が好きだったとは知らなかった。

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