ちょい読みその1 「午後二時の鈍行電車」より
文明や国家や企業や個人は、草創期、安定期、衰退期といったサイクルがある。
草創期はあっという間に過ぎ去ってしまう。安定期をのばすための工夫、試行錯誤はまどろっこしい。衰退期をしのぐ努力はむなしい。それより新しいことをはじめたほうが楽しい。技術革新のスピードは速く、次々と新しいものが出てくる。地道にこつこつやっていると「まだそんなことやっているんですか」というかんじになる。
十年、二十年と続く雑誌が減っている。新しい雑誌は、売り上げが落ちると、すぐ休刊になる。
お金にならないことはやらない。面倒くさいことはやらない。お金にならなくて面倒くさいことはすぐやめる。
気をぬくと、わたしもそうなる。効率と合理主義には抗いがたい魅力がある。
フリーライターという仕事を一般化するのはむずかしいのだが、わたしのまわりで長く仕事を続けている同業者はお金と関係ないことに夢中になるタイプが多い。商業誌の仕事をしながら、ミニコミを作る。わけのわからないイベントをやる。採算を無視した取材をしたり、資料を買ったりする。
何度も無収入にちかいような時期を経験してもやめない。
たまたま運がよくてどうにか食えているというところもないわけではないが、それだけではないとおもう。
目的地に向かうのに、快速電車ではなく、鈍行電車に乗る。最短距離のルートは混みやすいから、遠回りして空いている道を走る。
新幹線の指定席の切符が買えなくても、平日の午後なら自由席でもかまわない。混んでいる電車の次の電車はけっこう空いている。
昼すぎの鈍行電車でも目的地に着く。なんだったら途中下車してもいい。寄り道をしながら、抜け道を探す。行き止まったら、引き返す。道に迷うことで知らない場所にたどりつくこともある。
- 『勝負師と冒険家―常識にとらわれない「問題解決」のヒント』
- 白石 康次郎、羽生 善治
- 東洋経済新報社
- 1,575円(税込)
- >> Amazon.co.jp
- >> 本やタウン
将棋の羽生善治さんと海洋冒険家の白石康次郎さんの対談集『勝負師と冒険家』(東洋経済新報社)という本を読んでいたら、白石さんがこんなことを語っていた。
白石さんは中古のヨットで単独世界一周レースに出場し、二位になった。参加者の中には、大きなスポンサーがついて高性能のヨットに乗っている人もいる。
「レースの方法ですが、このやり方には二つあってね。同じ性能の船だったら、同じ風で同じスピードが出る。だから、ベタッとトップについていくという作戦がある。そうすれば、同じ条件なので離されることはない。ただ、船のスピードが違う場合、たとえば、最新鋭の船と、僕のように中古艇の場合だと、同じ風で戦っても勝てないんだ。その場合、みんながこっちへ行くにもかかわらず、わざと違う進路をとり、違う風で走らせるバクチを打つ場合があるんだ。運がよければ抜かすことができます!」
でも世界一周レースでは船体を大事にすることを重視したという。スピードを追求するよりも、船が壊れたときの修理道具をたくさん積むことを選んだ。その結果、優勝を争って無理をしたヨットが次々と脱落して、二位になった。
レースは天候に左右される。最短距離がいいとはかぎらないし、遠回りすればいいともかぎらない。
フリーランスの仕事も運次第のところがある。
たいてい資本がない。大手の出版社、新聞社、有名作家と同じことをしても勝負にならない。だからいつも別ルートを探す。お金がないから、時間をかけるしかない。ときには一か八かの賭けも必要だが、あまり無謀なことはできない。
ボロボロの中古艇をだましだまし操縦し、ちょっとちがうルートを探しながら、完走を目指すほかない。
とりあえず、わたしは疲れたら寝ることにしている。
ちょい読みその2 「ヒモ願望」より
二十代の頃、ずっと旅館の若旦那になりたかった。伊豆あたりの温泉旅館のひとり娘の養子になって、一日二、三時間くらい仕事を手伝い、あとは読書をしたり、小説や随筆を書いたりするという生活に憧れていた。
たぶん、旅館の仕事はたいへんである。きっと朝から晩まで働きづめだろう。しかも最近は経営難の旅館も多い。
もし仮にごくつぶしの若旦那を歓迎してくれるような旅館があったとしよう。
わたしはきっと毎日酒を飲むだろう。そして夜更かしするだろう。起きるのは毎日昼すぎだ。とりあえず、散歩する。
暇つぶしにパチンコ屋に入る。負ける。
釣りをする。釣れない。
旅館に戻ると、妻とその家族が慌ただしく働いている。
その姿を見て、ちょっぴり、いや、かなり後ろめたい気分になるにちがいない。
それでも妻はこういう。「旅館のことはわたしにまかせて、あなたはいい作品を書くことに専念すればいいの」
ううっ、泣ける話だ。でも、こんなことはありえないのである。
次にハウスハズバンドになりたいとおもうようになった。
男性が家事をして、女性が外に出て働くというのは、昔と比べると、珍しいことではなくなっている。とてもよい傾向である。
わたしは掃除とか洗濯はけっこう好きだ。上京以来、貧乏続きでほぼ毎日自炊してきたので、料理もそこそこ自信がある。さらに新聞の折り込み広告をチェックし、一円でも安く食材や生活用品を買いそろえることにも余念がない。
なぜこんなふうになってしまったのか。
自由で気ままな暮らしを謳歌するために、なるべく義務とか責任を背負わないような生き方をしてきたからだ。
最低限の生活費を稼いだら、後は好きなことしかやらない。だから貧乏だけど、時間だけはたっぷりある。若いころはそんな生活もそれなりに楽しかった。
三十路すぎあたりから、その心境がすこしずつ変化してきた。前は、アルバイトが終わってから、古本屋や中古レコード屋をまわったり、ライブハウスや飲み屋に行ったりすることが、まったく苦にならなかったのに、だんだんしんどくなってきたのである。
遊ぶことにも体力がいる。そして何らかの努力をしないと、遊びの楽しさはしだいに薄れてくる。
村上龍は、「フリーターには未来がない」といっているが、わたしはそうはおもわない。世の中には、サラリーマンには向いていない種類の人間もいる。
また会社をクビになって悲観して首をくくってしまうような人のためにも「フリーター」という受け皿はあったほうがいい。
自分がほんとうに好きなこと、なりたいものがあるのなら、気がすむまでそれを追い求めるのも、ひとつの人生だ。その生き方を他人がとやかくいう筋合はない。また他人の言う通りにしたからといって、幸せになれる保証もない。ただし、「フリーターの未来は楽ではない」とはいえる。
アルバイトには年齢制限がある。いくら気持は若くても確実に齢はとり、仕事の選択肢はどんどん少なくなくなる。
長く同じ職場にいると、自分より年下の社員に気をつかわれ、だんだん煙たがられるようになる。気がつくと、自分と同世代のアルバイトがいなくなる。
統計でいうと、三十五歳はフリーターですらない。もちろん国民年金にも加入していないし、貯金もない。
東京の中央線沿線界隈には、四十代、五十代のおっさんのフリーターがけっこういる。しかし、そういう人の同居人はたいてい看護師や学校の先生など、定収入が得られる職業に就いている。
それがリアリズムである。
おぎはら・ぎょらい。1969年三重生。著書『借家と古本』(スムース文庫、コクテイル文庫)、『古本暮らし』(晶文社)、編著『吉行淳之介エッセイ・コレクション』(ちくま文庫)。毎日新聞夕刊、読売新聞夕刊、『小説すばる』、『ちくま』、『本の雑誌』で連載中。『sumus』同人。
荻原魚雷公式ホームページ「文壇高円寺」