【今週はこれを読め! エンタメ編】「知りたい」気持ちを持ち続ける〜三浦しをん『愛なき世界』

文=松井ゆかり

 自分がそれまで知らなかったことを知りたいと思う気持ちは、誰にでもあるのではないだろうか。このような気持ちが強い人ほど心豊かな人生を送れるような気がしてならない。だいたいにおいて人間は加齢とともに好奇心の方は減少していくものだが、「知りたい」という気持ちをいつまでも持っている人がどんな分野でもいきいきと仕事や研究を続けられるように思う。

 藤丸陽太は、洋食屋「円服亭」の住み込み店員。円服亭は、東京都文京区の国立T大学の赤門向かいあたりに小さな店を構えている。店主である円谷正一の腕がいいおかげもあって、T大の学生や教職員で繁盛している店だ。勤め始めて半年になる藤丸には、気になる5人連れの常連客がいた。男性3人+女性2人の中で最も年長の男性は40代半ばと思われ、「いつも黒いスーツを着ているが、ネクタイはしていない。葬式帰りか、仕事帰りの殺し屋みたいな、物静かを通り越して少々陰鬱な雰囲気」と形容される人物だ。その他の4人は20代半ばから30代半ばくらいで、Tシャツとジーンズにビーチサンダル履きなどのラフな服装をしている。教員・学生にしては夏休みに入っても店に現れるし、かといって勤め人にも見えない彼らの正体はほどなく判明した。円服亭がデリバリーを始める旨の貼り紙をしたところ、ひとりで店を訪れた黒スーツの男がさっそく反応を示したのだ。藤丸が受け取った名刺には、その男・松田賢三郎の肩書きがT大の教授であることと、「大学院理学系研究科 生物科学専攻」という所属が明記されていた。

 藤丸は正直なところ学生時代はあまり勉強熱心ではなく、「生物科学」が具体的にどのような学問を指すのかはっきりわかっていなかった。翌日さっそく松田研究室から注文が入り、藤丸はT大へと向かう。理学部B号館の玄関ホールまで迎えに出てくれた院生の本村紗英の「風鈴みたいに涼しく軽やかな声」や「きれいなかかと」に気を取られつつ、彼が足を踏み入れたのは緑でいっぱいの部屋だった。そこで初めて藤丸は、5人のユニークで気のいい常連客たちが研究しているのが「植物学」だと知る。

 次の章は本村の視点で物語が進む。子どもの頃からわりとボーッとしているタイプだったと思われる本村は、植物が好きだった。もともとは私大の学部生だった彼女は、研究する対象がそれまで通り大腸菌でいいのだろうかと迷いを持つようになる。愛着のあった植物を研究したいという気持ちが高まるものの、大学4年生になる頃には就職を考えるべきではとの思いにも苛まれるように。しかし大学の敷地内でケヤキの木を見上げた瞬間、本村の心にわき上がったのは「どうしてケヤキはこういう形で枝をのばすの。どうして植物によって葉のつきかたがちがうの。知りたい、知りたい、知りたい。いったいどういう仕組みで、植物は、私たちは、自らの形を決定づけ、生命活動をしているの」という衝動だった。

 藤丸は本村を好きになって、告白するが玉砕。そこで藤丸が心を閉じてしまっていたら(ずいぶん落ち込みはしたとしても)、本村とのつながりもそこまでだっただろう。しかしそれで終わりにするには、藤丸は植物に対して以前には考えられなかったほどの興味を持つようになっていた。一度は失恋したものの、藤丸は植物を通して自分たちが生きる世界についてのかけがえのない視点を手に入れたのだ。店員と客という間柄ゆえ、藤丸が本村にふられた後もたびたび顔を合わせるふたり。彼らの関係は、また本村の研究はどうなっていくのか...?

 本書を読んでいる間、ずっと『愛なき世界』というタイトルのことを考え続けていた。恋心を打ち明けた藤丸に本村が口にした、「植物には、脳も神経もありません。つまり思考も感情もない。人間が言うところの、『愛』という概念がないのです。それでも旺盛に繁殖し、多様な形態を持ち、環境に適応して、地球のあちこちで生きている」「愛のない世界に生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています」との言葉に由来しているものだろう。しかしながら、私はほんとうにそこは「愛なき世界」なのかということが心に引っかかっていた。そうしたら、物語の最終盤に藤丸が私の疑問への答えを示してくれたのである。みなさんにも、お読みになって確かめていただけたらと思う。

 植物を研究することも、料理の腕を磨くことも、それらを好きでやっている者にとってはまさに人生の喜びである。さまざまな人間がさまざまな意志を持って生きている。そして、さまざまな動植物がさまざまな適応能力を発揮して生きている。もしもう一度地球の歴史をやり直しても、すべての進化が同じように発生することはないのだそうだ。研究者だけれどもけっこう融通の利かないところのある本村も、あまり物事を考えていないようでいて意外と柔軟な発想をする藤丸も、すべての生物が多様性の産物であることの一例といえるかもしれない。この世界に生まれてきたのは気の遠くなるような偶然が重なって起きた奇跡だとすれば、本村の研究に邁進したいという気持ちも、藤丸の好きな人と心を通わせたいという気持ちも、きっとどちらも正解なのだろう。

 そうそう、本書に関してもう1点。本書は装幀の美しさでもひときわ目を引くものになっている。さる10月12日夜に東京・下北沢の書店B&Bにて開催された三浦しをんご登壇のトークショーに参加してきた。トークの内容は三浦さんと担当編集者の石川由美子さんによる、『愛なき世界』の装幀が生み出されるまでの醍醐味とご苦労などについて。「これはきれいな表紙だな」「好みの絵だわ」となんとなく気にはなっていた装幀というものが、実はこんなドラマティックな過程を経て作り上げられているものだったなんて! そう、一冊の本を作る際にも、たくさんの人の「どう書けば読者に伝わる?」「どんなやり方ならイメージに近い沿ったデザインになる?」「植物をいきいきと描くにはどんな風にすればいい?」といった強い思いや好奇心が集まってできあがるのだ。三浦さんたちのお話はもっともっと聴いていたいと感じるほどおもしろく、自分にもまだ「知りたい」気持ちが残っていることが心強く感じられた一夜でした。

(松井ゆかり)

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