【今週はこれを読め! エンタメ編】甲子園を整備するプロの仕事〜朝倉宏景『あめつちのうた』

文=松井ゆかり

 もともと激ユルだった私の涙腺は、加齢とともに衰弱の一途をたどっている。にしても、我ながらいくら何でも泣きすぎだろうと思ったのが、数年前高校野球をテレビで見ていた際にまっすぐに引かれたグラウンドの白線を見て涙ぐんでしまったことだ。「ああ、こんなに美しくグラウンド整備をすることで、選手たちを支えるスタッフがいらっしゃる...!」と感極まり、一緒に見ていた家族たちを震撼させた。いま思えば、あのときの私は阪神園芸さんの芸術的な仕事ぶりに胸を打たれていたのか...。

 さて、いきなり登場した「阪神園芸」とは何か。私も本書を読むまでまったく存じ上げなかったのだが、阪神園芸株式会社は「阪神タイガースの本拠地である、甲子園球場のグランド整備業務を請け負っている」企業だ(甲子園以外のスポーツ施設の管理・整備も手がけるし、園芸・造園・緑地管理の部署などもあるとのこと)。なんと甲子園のグッズショップでは、阪神園芸関連のグッズも売られているそう。主人公の雨宮大地は、高卒で阪神園芸に入社したばかり。入社前から希望していた通り、甲子園のグラウンドキーパーに配属された。しかし、仕事ではいまだ慣れない部分が多く、いちばん歳の近い先輩である長谷騎士(読みは「ナイト」)はやたらと大地への当たりがキツい。もっと年長の先輩である甲斐や島は根気よく仕事を教えてくれるが、一朝一夕にマスターできるようなものではない。大地はお世辞にも運動能力は高くなく(というか極めて低い)、ほとんどが野球経験者である先輩たちと同じような動きをすること自体が難しかったりもする。そんな大地がなぜ阪神園芸で働くことになったのか?

 大地の実家は、両親と3歳下の弟・傑の4人家族。父は元社会人野球の選手で、高校時代はあと一歩のところで甲子園出場を逃した。その夢をまず長男に託そうとしたのだが、前述の通り大地は野球のセンスに欠けていた。幸か不幸か次男は抜群の才能の持ち主で、父の期待はすべて傑に向くことに。それでも父とつながっていたいという思いから、野球観戦に出かけたり高校野球の強豪校で野球部のマネージャーを務めたりも。「野球は、大好きだけど、大嫌いだった。大嫌いだけど、大好きだった」という複雑な気持ちを整理したいという思いも、阪神園芸に入社した理由のひとつだ。他にも大地を奮い立たせたのは、高3の夏の思い出。甲子園出場を果たしたものの1回戦で負けてしまった試合終了後、親友でエースの一志が乾いて固くなってしまった甲子園の土を集めようと苦労しているところに、別の場所から土を運んできてくれた係員がいた。プレーヤーになれなくても、選手と観客のために最高の舞台を整える仕事を生業とする人たちがいる。彼らのように甲子園球場で働きたいという決意が、大地の心に芽生えたのだ。「俺だって、人の役に立つ人間でありたい。どうせ志すなら、最高の場所を目指したい。父さんに何としても認めてもらえるような社会人になりたい」と。

 生まれてから一度も挫折を経験せずに大人になる人間は、まずいないだろう。同性にしか恋愛感情を持てないことに悩む一志、夏の甲子園に「ナイト君フィーバー」を巻き起こしながら故障によりプロ野球入りをあきらめた長谷、歌の才能に恵まれながら自分本人の実力ではなく大病を患った過去によって甘やかされているだけなのではないかと疑うビール売り子のアルバイト大学生・真夏...。好きで選んだ道であっても、苦労がないはずはない。自分の理想と現状にはたいていの場合乖離があるもので、それは希望の進路であろうがなかろうが同じことだと思う。だったら、実力を上げるように努力を重ねて、自分自身を理想の姿に近づけていくしかない。仕事を続けていくうえで何度もぶつかるであろう壁に対しては、何度でもぶつかって乗り越えて行く以外にないのだ(心身に不調をきたすような場合は別として)。そのためには、あまり興味が持てない仕事ならまず好きに、もともと好きな仕事ならもっともっと好きになれるといい。

 親と子、兄と弟、先輩と後輩の結びつき、あるいは友情や恋愛といった感情...。そういった関係は大地たちだけでなく、甲子園に集まる高校球児、観客、そしてスタッフたちにとっての悩みであり支えでもある。グラウンド整備で重要なのは、土を掘り起こして水分を吸わせる作業だ。それは人の心にとっても必要なこと。よい土を作るためには土と、よい人間関係を作りたいなら人と、真剣に向き合わなければならないということだ。

 今年の夏、甲子園で高校野球の全国大会は開催されない。部外者である自分が球児たちにかける言葉はひとつも見つけられないが、どうか全員が胸を張ってこれからの人生を歩んでいってほしいと思う。私も、現実には見られなかったけれど、彼らがきっととびきりの笑顔や見ているこちらも熱くなるような好プレーを見せてくれたに違いないことを心に刻む。そしてそのとき戦ったのは、必ずや素晴らしく整備されたグラウンドの上でだっただろうということも。なんだか、阪神園芸ファンの気持ちがわかった気がします。

(松井ゆかり)

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