【今週はこれを読め! エンタメ編】料理とおみくじで一歩を踏み出す短編集〜冬森灯『うしろむき夕食店』

文=松井ゆかり

 食べ物の描写がおいしそうな文章は、もうそれだけでありがたい。食は大事。栄養学的な観点からももちろんだけれど、単純においしいものを食べたときの格別な幸せを思うだけでも、食事の大切さは決してないがしろにできないと思う。...という意見に賛同してくださるあなたに、ぜひおすすめしたい本がございますのよ。

 本書は、「夕食店シマ」という正式な店名がありながら、「うしろむき夕食店」の名で知られる飲食店が舞台の連作短編集。うしろむき夕食店は、もともと祖母の志満がひとりで切り盛りしていた店。その志満さんのもとに、就職先が7件連続でつぶれたために職を失った孫娘の希乃香が転がり込み、現在はホール担当として店を手伝うように。たいへんおいしい料理を出すのだが、テレビなどで大々的な宣伝などはしないため、知る人ぞ知る隠れ家的な名店となっている。

 志満さんはもとは人気の芸者。料理はもちろん売りだけれども、志満さんの人柄にひかれて通う常連客も多い。魅力にあふれた店主たちと言葉を交わす中で、悩みを抱えた者もつい本音を口にする。さらに、うしろむき夕食店にはおみくじを引いて注文するという、わくわく感がたまらないシステムもある。おみくじに書かれた料理を味わいつつそこに書かれた言葉が示すものに思いをめぐらせているうちに、お客たちは問題解決の糸口を見出すことも。

 例えば「二の皿 商いよろしマカロニグラタン」の語り手である製薬会社勤務の宗生は、自分の担当医師との関係に悩んでいた。以前の担当先の医師・紅谷とはいい信頼関係を築けていたと思ったのに宗生が異動するとなったらとたんに用済み扱いされ、かと思えば異動先のエリアの担当医師である豊島にはまだ直接会えてさえいない、と。ふと気づいて注文したおみくじに書かれていたのが「商いよろしマカロニグラタン」の文字だった。「なんにも、よろしくなんか、ない」と気持ちがささくれ立つ宗生は、「今がよくないなら、これから」という希乃香の言葉にも素直にうなずけずにいるが、運ばれてきた絶品のグラタンを食べてよみがえった記憶があった。郷里の浜松でずっと木材加工業を営みながら、メーカーの事情でオルガン製作が打ち切られた後は力を入れていた楽器製造から一切手を引いてしまった父の姿を。その父が、以前ごちそうしたフランス料理店で付け合わせのマカロニグラタンだけはほめたことを。

 おみくじは結局のところ、それを引いた人の心持ちに大きく左右されるものだろう。そこにどんなことが書かれていても、"こんなもの当てになりはしない"と反発から入る人と"いいヒントになった、がんばろう"と柔軟にとらえられる人とでは、その後の行動のしかたが違ってくる。自分の視野がいろいろと狭くなっていたことに気づけた宗生が、そして各話の主人公たちが、どのように一歩を踏み出すことができたかが読みどころ。そしてもうひとつ、店を継ぎたいと申し出た希乃香に志満さんが出した「おじいちゃまを見つけていらっしゃい」という課題が果たして成就となるのか。芸者だった頃に出会った化学を学ぶ学生と恋に落ちたものの別れることになってしまい、志満さんはひとりで娘(希乃香の母)を産んだのだった。こちらの祖父捜しも、読者を大きく引きつけるポイントだ。

 「うしろむき夕食店」という通り名は、決して否定的な意味で使用されているわけではない。うしろとは過去、すなわち「古きよき時代を思い出すようなお店」ということなのだ。「もしかしたら、自分にとっては苦みにしか思えないことも、他の誰かにとっては味わいになったり、香りたつ個性に感じられることも、あるのかもしれない」「同じものを目にしても、心持ちひとつで、見えるものは変わる」といった、主人公たちの心に浮かぶ思いとも通じるのではないだろうか。

 本書のイラストの素晴らしさにも触れないわけにはいくまい(表紙のエビフライをご覧あれ!)。もうイラストだけでもごはん3杯くらいいけてしまいそう。本文・イラストあわせて危険な飯テロ本という側面もありますので、その点はご注意あそばせ。

(松井ゆかり)

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