【今週はこれを読め! エンタメ編】元科捜研の鑑定人が向き合う事件の真相〜岩井圭也『最後の鑑定人』

文=松井ゆかり

 なるべく予備知識なしで読んでみたい。そう望んだものの、いま大注目の作家である岩井圭也氏の新刊について、事前情報を極力入れないようにするのは難しかった。私のTwitterのタイムラインでは、ほぼ毎日誰かしらが岩井さんとその作品について語っている。やっと読み始めてみると、なぜか美術ミステリーだと思い込んでいた本書は、元科捜研(科学捜査研究所)の鑑定人を中心に展開する短編集だと知った(ネタばらしとかのレベルではない、ただの勘違いです)。警察小説などでも鑑定人や鑑識官の仕事がクローズアップされることはなかなかないし、まして彼らの心情が丁寧に描写された作品といったものはまれではないだろうか。そういった意味でも貴重な一冊といえる。

「最後の鑑定人」と呼ばれた男、土門誠。「土門誠に鑑定できない証拠物なら、他の誰にも鑑定できない。科捜研の最後の砦」というのが、その異名の由来だ。とある冤罪事件をきっかけに科捜研を辞め、現在は個人で〈土門鑑定所〉を開いている。それぞれの短編の視点人物は、先輩から紹介されて証拠の解析を依頼しに来た若手弁護士や、土門の下で働く技官・高倉柊子など。

 本書において、土門は一見つかみどころのない人物として描かれている。まず、とっつきにくくて無愛想。また優秀な人材にはありがちなことだが、正確さを期するあまり、部外者には難解な情報(鑑定の詳細な手順など)についてかみ砕いて説明するといった気遣いには欠ける。世間話でコミュニケーションを図るような社交性もみられない。...といった感じで感情を表に出そうとせず、「科学は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって人間です」「鑑定人なら、科学を裏切るような真似をしてはいけない」と語る土門であるが、時折見せる人間味にほっとさせられる場面もある。

 科捜研を辞めるきっかけとなった冤罪事件に関してはとりわけ苦い思いを抱えてきたようで、7年の時を経て解決の糸口を見つけようと調査に乗り出した様子が描かれるのが、最後の短編「風化した夜」。自殺した娘の遺品を鑑定してほしいと土門鑑定所を訪れたのは、60代半ばと思われる女性。亡くなった娘というのが、7年前の冤罪事件に関わった刑事課の捜査員だった西村葉留佳だった。事件は、40代の男性が被害者となった、連続通り魔事件のうちの1件と目された撲殺事件。一刻も早く犯人を捕まえなければと焦っていた警察が逮捕したのは、窃盗の前科もあった路上生活者。しかし、「あいつは絶対に殺してない」という証言者が現れ、さらに容疑者自身が自白を撤回する。葉留佳は責任を押しつけられる形で、警察を退職することに。7年前、ほんとうは何が起きたのか。土門や高倉や警察官たちの働きによって明らかにされた事件の真相を知り、人間の勝手さに対する反発とかすかに感じられた希望がせめぎ合うような気持ちで本を閉じた。

 人間を「どこまでもグレーな存在」と表現した土門の言葉が重い。人は時に罪を犯す。それを隠そうと考える者もいるし、自らの非を認めようとしない者もいる。それでも、そういった人々を正しい道に戻らせるには事実を明らかにする必要があり、科学がその根拠となる。そこから立ち直れるかどうかは、本人次第なのだとしても。

 読み始めてしばらくは、骨太な作風が評判の岩井作品の中では比較的ライトなようにも思われたが、なかなかどうしてずっしりくる一冊だった。たとえ奇抜な犯罪に見えても、鑑定の結果が指し示すものを事実とする考え方は、曖昧さとは無縁の潔さがある。それを踏まえたうえで、犯罪に関係した人々の気持ちに寄り添う土門たちの心の揺れが、きめ細かく描かれているのが素晴らしかった。本書を読まれた読者のほとんどが同じ気持ちだと予想するけれど、ぜひ続編を期待したい。

(松井ゆかり)

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