第128回:原田マハさん

作家の読書道 第128回:原田マハさん

アンリ・ルソーの名画の謎を明かすためにスイスの大邸宅で繰り広げられる知的駆け引きと、ある日記に潜んだルソーの謎。長年温めてきたテーマを扱った渾身の一作『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞を受賞、直木賞にもノミネートされて話題をさらった原田マハさん。アートにも造詣の深い著者が愛読してきた本とは? 情熱あふれる読書、そしてパワフルな“人生開拓能力”に圧倒されます!

その4「関学を卒業してからの怒涛の変遷」 (4/5)

かっこいいスキヤキ (扶桑社文庫)
『かっこいいスキヤキ (扶桑社文庫)』
扶桑社
637円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS
ながい坂 (上巻) (新潮文庫)
『ながい坂 (上巻) (新潮文庫)』
山本 周五郎
新潮社
853円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS

――卒業後は東京に戻られたんですよね。

原田:東京に戻ってきて兄の西早稲田の下宿によく遊びにいったんです。本棚にいっぱい現代小説があって全部借りて読みました。漫画もたくさんあったんです。泉昌之さんの『かっこいいスキヤキ』とか、しりあがり寿さんとか、あとは岡崎京子さん。そういうニューウェーブの一派にやられて、私もまた漫画が描きたい! と思ったんです。大学時代にも一回だけ、友人と共同して漫画を描いたんですよ。Gペンではなくロットリングで描いて『りぼん』に送ったら十傑には入ったんです。講評は「ストーリーは素晴らしいけれど漫画は下手」。その時応募した漫画のタイトルが「ロマンチック・フランソワ」。すごいタイトルでしょう(笑)。パリを舞台にした、三つ編みでそばかすのリセエンヌのフランソワという女の子が主人公の話です。『オリーブ』みたいな雑誌の編集者が、リセエンヌのライフスタイルを取材したいといってやってくる。その編集者がユリという名前の男性です。フランソワって実は男の子の名前なので、彼女はそれがコンプレックスだったんですが、ユリも女の子の名前なのに男性。それでお互いに共感するところがあったんですが、おしゃれリーダーの意地悪な女の子がいろいろと邪魔をするという。最後はハッピーエンドです。そんな漫画を描いたこともあったわけですが、社会人になっていた時は岡崎京子さんや当時山田詠美さんが描いていたような、大人な漫画を描きたいと思って。それで描いて『ASUKA』という雑誌に応募したら箸にも棒にもかからず、山岸涼子さんの手書きの講評には「漫画は下手だけどストーリーは素晴らしいからもっと描いてごらんなさい」って。

――それはどういうお話だったんですか。

原田:「ルーブルに間に合えば」という、またパリが舞台の話です。画家を志していたけれどあきらめてマルシェで青果店をやっている青年が主人公。彼は離婚して男手ひとつで子供を育てているんです。そこにエメという金髪の女の子が迷いこんでくるんですけれど、彼女は実はスーパースター。マネージャーの子供を宿していて、どうしても産みたいからといって家出してきちゃったんです。それで、二人は恋仲になって......という話。

――その頃に読んだ小説で印象に残っているものは。

原田:ガルシア=マルケスやアゴタ・クリストフといった海外小説に衝撃を受けましたね。そうこうするうちに兄が本当に小説家になったのでびっくりしました(笑)。兄の仲間となった中島らもさんや鷺沢萌さんの本も相当読みました。それから山本周五郎です。時代小説はなかなか手が伸びなかったんですが、兄が講演会で「いつか山本周五郎を読みたい」と言っていたので、しめしめ、先に読んでやろうと思って『ながい坂』を読んでみたら、こんなに面白い小説があるのか、と驚いて。そこから山本周五郎を読み、その後すぐに池波正太郎や司馬遼太郎も数珠つなぎに読んでいきました。

――ところで、関西学院大学を卒業してからお仕事はどうされていたのでしょうか。

原田:関学を出てからモラトリアム時期があって、グラフィックの学校に行ったんです。それから当時コピーライターをやっていた兄の紹介で就職してグラフィックデザイナーになったんですが、仕事がかなり大変だったことと、アートの世界に行きたいなという気持があって悩みました。結局激務で体調を崩し、1年半くらいで辞めてフリーとなりました。ある日、原宿の街中をぶらぶらしていたら、マリムラ美術館という私設美術館が近日オープンの準備をしていて。新しくオープンするということはスタッフを募集しているだろうと思い、つかつかと入っていって「私を雇ってください」と言ったんです。電話番号をおいていったら面白い奴と思ってくれたのか連絡があって、まんまと採用してくれました。その後、アートマネジメントのNPOを立ち上げるのでボランティアで参加しないかと誘われ、当時は結婚したばかりで夫の収入もありましたから、冒険してみようと思って美術館を辞めて、六畳一間の寺子屋みたいなところでアートの教室を手伝いました。肩書だけはアートディレクターでした。その教室にアートコンサルタントを担当している伊藤忠商事の社員の方が見学に来たんです。これはチャンスだと思って「一度私の話を聞いてください」と言ったら「会社にプレゼンに来てください」と言われ、そこからさあどうしよう、と考えて。当時はインターネットもなかったので資料を探して「今アメリカではコーポレートアートが流行っている」ということをテーマに本をカラーコピーしてピンセットで切り貼りして製本してそれらしい形にして、青山の伊藤忠まで乗り込んでいったんです。そこで口八丁なことを言ったら、採用してくれたんですよ。それが29歳の時でした。伊藤忠には5年くらいいましたね。その間に早稲田大学にも入り直しました。それから、当時の森社長が伊藤忠の顧客で、六本木に美術館をつくるからコンサルティングをしてほしいと頼まれて手伝ったら声がかかり、森美術館で働くことになりました。その間、森美術館とMoMAが提携して、私がその窓口だったんですが、人的交流の一環ということで、4か月くらいMoMAに派遣されました。

――すごい行動力!

原田:妄想って口に出すものだなあと思います。時代の後押しもありましたね。当時は企業も面白いなあと思う人材は採っていましたから。私は口八丁なだけです。自分で面白いと思って飛び込んでいったところで化学反応が起きて次のステップを見つけていく、という感じでした。

――伊藤忠にいる間に早稲田大学に入り直したというのは。

原田:それまでは美術に関して独学で本を読んだり人に話を聞いたりしていましたが、伊藤忠で働いているうちに自分は体系的的なことを知らなさすぎるなと思ったんです。1回勉強したほうがいいなと思い、調べたら当時の早稲田の第二文学部に美術史学科があったんです。いきなり大学院を受けるのは高度すぎるし、会社もあるので学士入学できる夜間の二文は私にとってベストでした。受験は40倍で、1回目は筆記は通って面接で落ちてしまって、悔しくて翌年受けたら「あなたまた来ましたね」と、憶えてくださっていて、それで入ることができました。

美術の歩み〈上〉 (1983年)
『美術の歩み〈上〉 (1983年)』
E.H.ゴンブリッチ
美術出版社
3,672円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp

――受験勉強は相当大変だったのではないですか。

原田:関学を受験する時よりもはるかに勉強しました。入試の論文を書くのに美術用語を使うので辞典を全部読んだし、日本美術史と西洋美術史の両方から出題されるので徹底的に憶えました。縄文時代から現代まで、西洋画から仏像まで、頭に叩き込んだんです。でも好きな世界のことなので頭に入っていきましたし、今はその知識が財産になっています。その頃は美術の本ばかり読んでいましたね。E・H・ゴンブリッチの『美術の歩み』という、世界中の美術関係者が必ず読む名著があるんですが、これは、もしも無人島に行くとして何か1冊だけ選ぶなら、絶対に持っていきたい本です。西洋の美術史が主なんですが、非常にやさしい言葉で書かれていて、ただ淡々と事実を堅苦しく語るのではなく、いかに人類がアートを育んできたかを、筆者自身が愛情をこめて書いているんです。『楽園のカンヴァス』の根底にあるアートへの愛情は全部ゴンブリッチさんから受け継ぎました。人類がいなくならない限り読まれ続ける本ですね。宝物です。

» その5「いちばん熱い読書体験&作家デビュー」へ