第178回:宮内悠介さん

作家の読書道 第178回:宮内悠介さん

デビュー作品集『盤上の夜』がいきなり直木賞の候補になり、日本SF大賞も受賞して一気に注目の的となった宮内悠介さん。その後も話題作を発表し続け、最近ではユーモアたっぷりの『スペース金融道』や、本格ミステリに挑んだ『月と太陽の盤』も発表。 理知的かつ繊細な世界観はどのようにして育まれたのか。読書の変遷をたどります。

その4「小説を書くために読む」 (4/6)

  • 機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
  • 『機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)』
    横光 利一
    新潮社
    594円(税込)
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  • ロビンソンの末裔 (角川文庫)
  • 『ロビンソンの末裔 (角川文庫)』
    開高 健
    KADOKAWA / 角川書店
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――さて、大学時代の読書で面白かったものは。

宮内:大学に入ってからはとにかく小説を書くための勉強を思って読んでいたので、広く浅く、でした。ただ、自分の文体を作っていく上で何をどう摂取するかと考えて、読みすぎないようにと注意をしました。私が本当に全作品を読んだことがあるのって、あるいは綾辻行人さんと法月綸太郎さんくらいかもしれません。私は影響を受けやすいので、あまり読みすぎるとかえって書けなくなると思ったのです。
勉強としての読書では、まず日本語で書くからには日本文学だろうと古典を順にちょっとずつ読んでいったのですが、文体面で好きだったのは横光利一、島尾敏雄、中上健次、開高健あたりでした。
横光利一さんは実験的にいろいろ書いていて、四人称小説と銘打った「機械」が有名ですが、私はその直後の短篇「時間」が好きなのです。もっともらしい文体でコントのようなことをやっていて、すごく笑えるんです。ほかに好きなのは『春は馬車に乗って』。
島尾敏雄さんはオーソドックスに『死の棘』。どうしてあそこまで克明に記憶しているのか、いまだに分からない。普通は、記憶が空白になるような体験であると思うのです。一種の写像記憶みたいな能力をお持ちだったのか。開高健は『ロビンソンの末裔』を。北海道開拓民の大変な日々を描いたもので、作物も育たない土地を割り当てられ、そこでまず木を組んで家のようなものを作るところから始めるんです。その過酷な北海道の描写や、暗闇の中での群衆の描写などが印象に残っています。中上健次は『枯木灘』を書き写しました。

――え、『枯木灘』全部ですか。結構な長篇ですよね。

宮内:全文です。文体練習のつもりでしたが結構な長さがあって、後悔しました(笑)。今の自分がまだまだですので、効果があったとは言いづらいのですが、少なくとも影響はありました。
その他は、当然サークルで薦められたミステリを読んだりしまして。これは私の勝手な歴史観なんですけれど、私はオタクが差別を受けていた最後くらいの世代なのかなと感じていまして。それで、オタクを恰好いいものにリファインしたいと思ってサブカルチャーに傾倒して、勢い、当時のJ文学と呼ばれていたものも読み漁ったりしました。阿部和重さんや鈴木清剛さん、藤沢周さんとかです。
当時、サブカルチャー寄りのミステリを目論んでいたんです。横光利一の「時間」や、町田康さんあたりの文体で大がかりなミステリの要素を放り込んだものを書こうとして、2、3作習作を書いたところで、そのものずばりの舞城王太郎さんがデビューされまして、これはまずいと方向転換しました。割合いい線いっていると思っていたのでショックでしたが、舞城さんはそのだいぶ前からメフィスト賞に送り続けていたので、私よりもきっと3年くらい早くから同じことを思いついていたのですね。そう考えると悔しさはありません。

――新人賞への応募ははじめていたんですか。

宮内:大学3年か4年の頃から始めました。「ミステリーズ!」新人賞や、松本清張賞にも送っています。

――応募生活を送りながら大学を卒業するわけですよね。卒論はありましたか。

宮内:ありました。今はなき早稲田大学第一文学部で、2年から専修が分かれるところで英文学を選びました。そこで90分の講義でシェイクスピアのうち1ページを延々読み続けるといった鍛錬がありつつ、言語学に興味を持ちまして。ここで、前からの理系的な興味と繋がりました。言語学を科学にしようとしたノーム・チョムスキーの理論に、昔から持っていた人工知能関連の知識がリンクしてきまして。その頃は、いかにして機械で人間の言語を扱うかという自然言語処理が今ほど発達おらず、未開拓の領域が広くあると思ったのです。インターネットが普及し始めたばかりでしたから、検索エンジンと意味論をリンクさせて、日本語の文脈解析に焦点を当てた論文を書きたいといって概要を事前に提出したら、「私たちには評価できません」と当然リジェクトされまして。それはもっともだと思い「方向性としては自然言語処理をやりたい」と要望を出したところ、「それでは自然言語処理の概論を頼む」と言われ、機械がいかにして言語を扱うのかの概論を百数十枚でっちあげて卒業しました。何年かに一度はそのような学生がいるようで、そのなかではかなり先端を行っていたという褒め言葉はなんとかいただけました。
学部生が習うようなオーソドックスな言語学の意味論は、かなりプリミティブな代物でして。たとえば私たちを定義するにあたって「人間である」「黒髪である」とフラグを立てていくようなもので、言語処理において意味や文脈を扱う上では使いづらいので、当時普及しはじめた検索エンジンとニューラルネットワークを使った意味論のアップデートを目論んでいたのですが、それは夢のままで終わりました。とはいえ、今のニューラルネットワークの再評価は2010年前後からですから、時期尚早ですね。

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