『避暑地の猫』宮本輝

●今回の書評担当者●八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明

 高校時代、文庫で「泥の河」と「螢川」を読んで以来、宮本輝は大好きな作家だった。ちょうど『青が散る』がドラマ化され、人気が高まっていった頃である。次から次へと宮本作品を読み続けたが、中でも『避暑地の猫』にはとても驚かされた。

 大企業の社長一家である布施家と、布施家の持つ軽井沢の別荘に番人として雇われた久保家の、1950年代から60年代にわたる愛憎劇を、久保家の息子修平の語りで描く長編。布施家の財力と、修平の母姉の美貌によって、両家には異様な関係があることを知り、十七歳の修平は激しい憎悪をたぎらせる。情念と瞋恚が全編をおおった暗い物語である。

 宮本輝はヒューマニズムの通底する作品を多く発表してきたが、人間の暗い面まで含めて描くことで、その人間賛歌に厚みと奥行きを生み出している。しかし『避暑地の猫』では、人間賛歌の面は封印され、ひたすら暗い情念のみが描かれる。おそらくこういう作品はもう書かれないと思うので、これは宮本作品で唯一の異色作といってよいだろう。その異色さゆえに、印象に深く刻まれ、名作の誉れ高い『錦繡』と並んで、私は『避暑地の猫』が好きである。

 この文を書くために、30年ぶりくらいに再読してみたが、その強烈な印象は変わらなかった。ただ修平と同じ十七歳だった初読時とは、感じ方は違っているように思う。同年代だった当時のほうが、修平の感情を青臭いものとして、やや蔑んだ気持ちで読んでいたような気がする。むしろ中年になった今のほうが、彼に共感できるところが多い。

「仕方がない、それが人間というものだとうそぶく人は、ぼくを檻の中の珍獣としてしか見ないだろう。その人もまたぼくと同じ珍獣であることなど、決して考え及んだりしない。人間のすべての悪、すべての誤謬の根源がそこにある。人は、他者の宿命を平気で眺めるくせに、自分の宿命を見つめる視力を持っていない。これがエゴイズムでなくて何であろう。戦争や犯罪が何によって引き起こされるかを考えてみるがいい。複雑で高邁な論理を並べたてる人は馬鹿だ。たった一言で済む。「我欲」だと。」青臭いと言ってしまうのは簡単だが、こういう言葉は、常に人の世で必要なものだろう。

【以下、結末に触れます。】

 だが、もっとも印象的な言葉はラストにある。十七歳のときに犯した罪を語り続けた、中年になった修平が、最後に、真相を知る姉について触れた一言。「姉のことは、もう殆ど思い出すこともなくなった。姉は、金には困ってはいないだろう。どこかで毅然と、不幸な人生を歩んでいるに違いない。」

「毅然と、不幸な人生を歩」む。何という表現だろう。初読時には比喩でなく本当に鳥肌がたったが、いま読み返しても凄いと思う。このラストのワンフレーズの鮮烈さが、この作品を忘れがたいものにしていると言っても過言ではない。

 余談だが、中年になった修平が本屋に勤めているという設定はすっかり忘れていた。何だか読んでいると、地味で暗いイメージを本屋という職業で表しているようにも見えるが、回想で語られる修平の深い思索に、本屋で得た知識が影響していると見ておこうか。

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八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明
八重洲ブックセンター八重洲本店 内田俊明
JR東京駅、八重洲南口から徒歩3分のお店です。5階で文芸書を担当しています。大学時代がバブル期とぴったり重なりますが、たまーに異様に時給 のいいアルバイトが回ってきた(住宅地図と住民の名前を確認してまわって2000円、出版社に送られた報奨券を切りそろえて1000円、など)以 外は、いい思いをした記憶がありません。1991年から当社に勤めています。文芸好きに愛される売場づくりを模索中です。かつて映画マニアだった ので、20世紀の映画はかなり観ているつもりです。1969年生まれ。島根県奥出雲町出身。